日本で最初のラジオ放送が開始された大正14年(1925年)、杉並(当時の杉並町)で、地域情報新聞が創刊された。『杉並町報』である。紙面には窃盗、火災、伝染病、出生・死亡記事、町会議員選挙、病院や学校の話題など町内の最新ニュースのほか、小説や旅行記などが掲載されている。また、商店や病院などの広告も掲載され、当時の町の様子を知る歴史的価値のある新聞である。残念ながら発行されたものは残されておらず、ごく一部、昭和4年1月10日号から同年10月19日号までのコピーだけが残っている。
『杉並町報』を創刊したのは新聞記者・南雲武門(なぐもたけかど)氏である。新聞のほかに杉並に関する書籍を発行するなど数々の業績を残したが、氏について書かれたものはなく、その功績は語られることなく歴史に埋もれてしまった。南雲氏とはどのような人物だったのだろうか。
明治32年(1899)、新潟県東頸城郡大島村(現在の上越市大島区)にある大家の4男4女の次男として生まれる。『杉並名鑑 附杉並区勢要覧』に掲載の経歴には「中学を卒へるや上京して東京農業大学に学び、大正9年に卒業す。家禽界記者を経て、株式会社萬朝報社に入る」とある。
雑誌『家禽界』の雑誌記者から、日刊新聞の記者の道へ進んだ南雲氏。氏が働いていた当時の『萬朝報』には、国内外の情勢、政治問題をはじめ、連載小説などが掲載されていた。また、日曜版には「コドモ萬朝報」として子ども向けの記事も載っている。『杉並町報』にも「家庭とコドモ欄」に童話などが掲載されており、紙面の作り方など『萬朝報』から影響を受けていたことがうかがえる。
大正12年の関東大震災を受け、南雲氏の状況は一変する。「震災後感ずるところありて萬朝報社を退き大正13年5月居を阿佐ヶ谷に移し、副業養鶏社を創立して月刊雑誌副業養鶏を発行せしが時利あらず、同14年7月杉並町報社を創立して今日に至る」(『御大典記念 杉並町人名鑑』プロフィールより)。
2011年の東日本大震災時を思うと、氏の思いもわずかながら分かるような気がする。新聞やテレビが伝える震災全体の状況よりも、誰もがもっと身近な情報を欲していた。関東大震災では約10万5千人が死亡。当時の混乱ぶりは想像を絶するが、南雲氏は新聞記者としての思いに突き動かされたのではないだろうか。
かくして『杉並町報』が創刊される。どんな内容だったのか新聞記事を見てみよう。(※旧漢字はウェブ上に正常表示できない場合がありますので新漢字を使用しています)
『お目出度や 松の内の阿佐ヶ谷に三つ児生る』(昭和4年1月10日号より)
阿佐ヶ谷で1月2日に三つ子の女の子が生まれたというニュース。母子ともに健康で、「まつ・たけ・うめ」と名付けられた。「本年最初の三つ児であつて、三人とも無事に生長することは珍しいとのことであると」と書かれている。三つ子は珍しくなかったようだが、生活環境や当時の医療技術では無事に出産することが難しかったことが伺える。
『窃盗高円寺を襲ふ』(同年2月5日号より)
2月2日の未明、高円寺で6件の窃盗未遂事件が起こったという記事。いずれの事件でも気づいた家人の機転で犯人は逃げたという。同一人物の犯行ではなかったようだが、中には金庫の開け方を知らずに一銭も盗めなかった賊もおり、「何れも新米らしい」との見解。この日以外にも紙面にたびたび登場する窃盗事件。それだけ多かったのだろう。
『学童 伊勢大神宮 御大典式場拝観 旅行団體募集』(同年1月15日号より)
京都御所が一般参観されることになり、杉並町報社ではお伊勢参りと京都御所拝観旅行団を組織することになったという社告。後日掲載の記事によると、参加者は学童と保護者など約300人、3両の臨時列車を走らせ、5日間の大旅行となった。紙面では数回に渡って旅行記を掲載。夜行列車ではしゃぐ子どもたちや奔走する社員たちの様子などが書かれている。また、旅行団には地元の商店よりお菓子やソーダ水、救急薬などが寄贈され、地元の小さな新聞社を中心にした地域のつながりを感じられる。
テレビはもちろん、電話もまだまだ一般家庭に普及されていない時代、これだけの情報を集め、企画し、発行するのには相当な労力が必要だっただろう。「5周年記念号」となった昭和4年6月13日号には次のように書かれている。
「創刊当時は1ヶ月2回発行紙面2頁にして1人の社員もなく、これを東京各紙に折込として町民に配布したのであった。其の後2頁は4頁となり1ヶ月2回は3回となり、6回となり、今日の10回に到達した」
社員も1人から3人、5人、南雲氏の弟2人も新潟から出てきて手伝うなど徐々に増員し、4年目には工場員を合わせて20人となる。
さらに同年、井荻・高井戸版を新設し(毎号三面に掲載)、広告主は数百、読者は1万人(当時の杉並町人口約7万人)となり、そして遂に同年7月1日号で「杉並町報社の組織を株式に変更し又社屋新築し来る10月1日より日刊として読者各位に相見ゆる事となった。」と発表!しかし、残念ながら現存する新聞のコピーの最後、10月19日号はまだ日刊にはなっておらず、日刊紙としての資料はない。またその後、『杉並町報』はいつまで続いたのかも不明である。
杉並を愛し、杉並のために尽くす
昭和7年、杉並町報社を退社した南雲氏は、同年、杉並公論社を創立。杉並の著名人を紹介する『杉並名鑑 附杉並区勢要覧』(昭和10年)、杉並地域を記録した『躍進の杉並』(昭和11、28、37年)などを発行。その後、杉並区民新報社長となる。また、杉並新潟県人会長、民生委員、八幡通り親交会長などを務めるなど人望も厚かったようだ。
そんな南雲氏を家族はどう見ていたのだろうか。南雲氏の長男(故)の妻・米子さんと孫の裕臣さんに話を伺った。
「穏やかな人でした。口数は少なく、必要なことしか言わない。お酒を飲むと賑やかでしたね」(米子さん)
「新聞をやっていたのは知っていたけど、こんなにいろいろやっていたのは知らなかった。あまり話もしなかったし、してくれなかったし、明治の男という感じで近寄りがたかったですね」(裕臣さん)
昭和39年『杉並の礎』(杉並区民新報社発行)の発行を最後に、昭和41年66歳で逝去。杉並を愛し、杉並のために人生を尽くしたといっても過言ではない。
「幸に本書により時代の消長超勢を知り、多少なりとも本区の向上発展に資し、これを後世に貽して当時を想見するの資料たるを得ば、編者の光栄これに過ぎず」(『杉並名鑑 附杉並区勢要覧』序文より)
同じ杉並で活動する区民ライターとして、氏の志を見習わなければと思う。
<出典・参考文献>
『杉並町報』杉並町報社
『御大典記念 杉並町人名鑑』杉並町報社
『杉並名鑑 附杉並区勢要覧』杉並公論社
『躍進の杉並』杉並区民新報社
写真検索>『躍進の杉並』よりに写真掲載あり
『関東大震災を歩く 現代に生きる災害の記憶』武村雅之著(吉川弘文館)
※引用文の漢字仮名使いは本文のまま
南雲武門 プロフィール
明治32年(1899年)、新潟県出身。東京農業大学高等科卒業、萬朝報社に入社。大正14年、新聞『杉並町報』を発行。杉並町報社長、杉並公論社長、杉並区民新報社長を務め、『御大典記念 杉並町人名鑑』『躍進の杉並』など多くの書籍を出版。昭和41年没。