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杉並中央線誕生物語1:甲武鉄道誕生

「甲武鉄道」という私鉄で産声を上げた中央線

杉並を東西に走るJR中央線は、明治の昔『甲武鉄道』という「私鉄」で産声を上げた。 当時は馬車が主な輸送機関であった。明治2(1869)年に中野村の深沢某が、日本橋から新宿・中野・杉並の青梅街道を通り、田無まで走った馬車が営業馬車の最初といわれる。だが馬車では、「より大量に・より速く・より遠くまで運ぶ」という輸送の役割を果たしきれない。 そこで東京と多摩地方等を結ぶ新たな輸送機関である鉄道が求められ、甲武鉄道が誕生するのである。

もともとこの鉄道は、多摩や山梨などからの、丸太や石灰石などの特産物を東京に輸送する役割を持って開業された。そこで路線名は、甲斐国(現・山梨県)と武蔵国(現・東京都)を結ぶ目的を持って計画されたので、国名の頭文字を取って「甲武鉄道」(最初は「甲武馬車鉄道」)としたのだ。 当初、羽村(当時・神奈川県西多摩郡)から四谷大木戸(現・新宿区)間を玉川上水に沿って馬車鉄道を走らせる計画を立てた。玉川上水沿いならばすでに整地されているし、大半がなだらかで線路が敷きやすかったからである。しかし、江戸の人々の飲み水を確保するために造られた上水路沿いを鉄道が走ると「不潔極まりない」と、許可されなかった。

その後、豪商や元神奈川県知事、羽村の造り酒屋などを中心とする人々が、同じ新宿~羽村間で馬車鉄道の出願をしたものの、「羽村が終点では、営業的に成り立つ見通しがない」と、絹織物が盛んな八王子に変更して新宿~八王子間で出願しなおしたのである。だが時代が進み「馬車から蒸気機関車の時代」に入ったので、甲武馬車鉄道では蒸気鉄道の建設に計画を変更して完成を急いだ。
蒸気による鉄道計画は具体化して、新宿~八王子間を敷設することにした。鉄道が通過するルートには、当然杉並区域も含まれており、人々は鉄道の恩恵にあずかれるはずであった。

荻窪駅

荻窪駅

甲武鉄道錦絵(たましん地域文化財団所蔵)

甲武鉄道錦絵(たましん地域文化財団所蔵)

鉄道に反対した街道沿線の杉並住民

甲武(馬車)鉄道としては当初は、人家の多い甲州街道か青梅街道の沿線に線路を敷きたかった。多くの貨物輸送や乗客が期待できたからである。だが人々は、得体の知れない鉄道に対して激しく反対した。

当初は青梅街道沿線に敷設する案であったが、杉並でも農民や旅宿を営む人々を中心に抵抗した。
「和田村南部の和泉・永福寺村両村の北部の耕地を突っ切って、線路を敷設すると聞きます。本村はもともと地が痩せており、そのうえ耕地は手狭なので他村への出作人が多く、貧しい家が多いのが現状です。線路が敷設され耕作地が取られると、今以上に耕地が減る心配があります。そして地所を耕作する箇所が分断され、この2倍か3、4倍の道を迂回しなければなりません。迂回すると肥料や収穫等の運搬が大変です。

また、鉄道の敷設で自然作物の露を払ってしまい幾分かの収穫の成長を妨げます。近隣に瓦礫等が投交される心配もあります」
こうした農民だけでなく、高井戸宿のような宿場でも、「旅人が鉄道に乗ってしまうと、自分たちの宿場を素通りして、ここで休む人がいなくなる」と、旅籠(はたご 旅館)経営者を中心に団結して鉄道を拒否した。

甲武鉄道では、甲州街道沿いの反対があまりに激しいので、青梅街道沿いの住民にも打診したが、結果は同じであった。
駅が少なくその間隔が長いことや、大半の沿線住民は村外に出る必要も無く、「まずもって列車に乗ることはない」と鉄道に期待していなかった。自分たちの暮らしにどうしても必要な「生活路線」でないこともあり、反対運動はますますエスカレートしていった。
杉並の住民をはじめとする沿線の激しい反対運動に手を焼いた甲武鉄道は結局、甲州街道や青梅街道という幹線街道沿いへの敷設を断念した。

このように杉並の住民は、他の地域と同じように、鉄道に強いNOの姿勢を貫いて開業を拒んだのである。

甲州街道笹塚付近 小田内通敏著 帝都と近郊 より

甲州街道笹塚付近 小田内通敏著 帝都と近郊 より

怒り心頭でできた杉並貫通一直線ルート 

反対運動に手を焼く甲武鉄道は切羽詰っていた。「路線はどこを通ってもいいから、とにかく何が何でも敷設しろ」の方針に計画変更せざるを得ない状況に追い詰められた。 「集落が少なくても、反対の少ない場所に敷くしかない」と、別のルートを探した。 
だが、社内では総スカンである。

「青梅街道や甲州街道以外の場所に陸蒸気(おかじょうき)を走らせてもお客はない、キツネやタヌキは蒸気には乗らない」
こんなとき、反対運動で怒り心頭していた甲武鉄道の工事担当者である鉄道局技師・仙石貢(せんごくみつぐ 後の鉄道大臣)は、中野~立川間の地図上に「エイヤッ」と、やけ気味に『一直線の赤い線』をぐっと引っ張った(旧国鉄内の伝承話)。
こうして、現在の、高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪・西荻窪を通過し、中野~立川間を真っ直ぐに走る線路ができたのだ。だがそこは原野と桑畑が一面に広がっているだけの場所で、集落は少なく、とても採算が採れそうなルートではなかった。

約25キロメートルにわたるこの一直線路は、現在でも北海道のJR室蘭本線の社台~沼ノ端間の28キロメートルなどに次いで、わが国で3番目とも言われる長い直線の珍しい路線になっている。
こうして杉並を東西に縦断している今の路線は、明治22(1889)年4月、新宿~立川間の開業(八王子までは8月)にこぎつけるのである。
だが開業当初は、駅が設置されていない杉並には蒸気機関車は止まらなかった。鉄道を拒否したこともあって、目の前を素通りして走り過ぎて行く機関車を、杉並の人々は複雑な思いで見送っていたのだ。

甲武鉄道関係地図

甲武鉄道関係地図

区内最初の駅は「荻窪駅」

杉並区域で最初の駅(当時は「停車場」)は荻窪駅である。甲武鉄道の開業から2年半が経っていた。
甲武鉄道開業時からの駅は、新宿・中野・境(現・武蔵境)・国分寺・立川の四駅だけであった。しかし、中野と境駅の間は他に比べて、駅と駅の間が大きく離れていた。

甲武鉄道としてはもともと、貨物や乗客の確保という採算の点から、人馬の交通の多い青梅街道と交差する地点である荻窪付近に駅が欲しかった。高井戸などの甲州街道沿いの乗客も見込めた。
 場所としては青梅街道沿いの「井荻村下荻窪」(現・上荻一丁目の現荻窪駅の場所)が候補地として上がった。鉄道会社では、「貴殿の所持の畑地のところこそ一番いい場所だから、駅用地として献納してくれないか」と要請した。献納といっても無料による「寄付」のことである。地主は、先祖代々の土地を手放すことを拒否した。

開業が近づいていた甲武鉄道ではシビレを切らし始めていた。そこで、荻窪をあきらめ、青梅街道をはさんだ東側の「杉並村阿佐ヶ谷」(現・阿佐ヶ谷南三丁目の文化女子大付属高校付近)に設置候補場所を変更した。
阿佐ヶ谷の地主に打診したものの、「蒸気機関車から吹き出る火の粉で村が火災になる」との理由で大反対。何しろ当時の蒸気機関車で使う石炭は質がよくなかったから、煙突から火の粉が盛んに吹き上げていた。そのうえこの辺の農家もご多分にに漏れず、屋根はワラ葺きであり、家の周りには薪(まき)やワラなど燃えやすいものに囲まれていた。ちょっとした火の粉でも火災に見舞われる心配があった。
このため、阿佐ヶ谷の人々も大反対、下荻窪に駅の設置を押し戻した。

歴史に「もしも」はないというが、このときOKが出ていれば、いまごろ「天沼陸橋」の東側の阿佐ヶ谷地域に、杉並最初の駅ができていたかもしれないわけだ。
こうして荻窪駅が開業することによって、中央線(甲武鉄道)が初めて杉並の人々に身近な鉄道となるわけだ。明治24(1891)年12月、今から一世紀ほど前のことである。

スケッチ:矢島又次氏荻窪駅付近 杉並区広報課所

スケッチ:矢島又次氏荻窪駅付近 杉並区広報課所

DATA

  • 取材:中村 建治
  • 掲載日:2006年04月24日