大正8(1919)年1月に吉祥寺駅まで電化された中央線は、人口の増加もあって運転本数を増やし、便利な交通機関に発展していく。
だが杉並の人々は、目の前を鉄道が走っているのに、中野駅や荻窪駅まで何十分も歩いてから電車に乗らなければならない不便を強いられていた。こうなると、荻窪以外からも「わが村に駅が欲しい」という声が聞こえてくるのは当然の成り行きとなる。
「駅の新設は、地元の発展に欠かせない」と、駅誘致の運動が各地で高まりを見せるのだ。鉄道省でも、「中野駅と荻窪駅の間はだいぶ距離が離れているため、両駅の間に駅が必要」と、駅新設を認めていた。そこで両駅の中間地点に位置する「阿佐ヶ谷村」と「馬橋村」では「この時とばかり」に、競って誘致駅に名乗り出る。
阿佐ヶ谷村ではいち早く、鉄道省へ駅新設の陳情書を提出した。これを聞いて刺激された馬橋村でも村民有志が、鉄道省に繰り返し足を運んで駅の新設を陳情する。
ある日陳情に訪れた馬橋村民に鉄道省の役人が、「荻窪駅と中野駅2.5マイル(4.0キロメートル)の中間地点に駅を設置する」と漏らしたのだ。荻窪と中野の中間地点とは、紛れもなく馬橋村そのものの場所である。
馬橋村の村民は大喜びで、この話を内示と受け取り「他人に漏らさない」という約束を取り付けてから、村内の関係地主に伝えた。そして密かに「馬橋駅」(仮称)の開設に向けて準備を始めるのだ。
ここでいう準備とは、駅設置と見込まれる辺りに、鉄道の南北を横断する道路を開くことであった。そうすれば、五日市街道、青梅街道、大場通り(現・早稲田通り)からも、駅を利用しやすくなるという構想だ。既成事実を作って有利に運ぼうとしたのである。
そこで、「五日市街道・松ノ木(現・松ノ木バス停付近)~青梅街道(現・梅里二丁目交差点)~杉並消防署馬橋出張所西側~杉並第六小学校東側~北馬橋郵便局前~早稲田通り(現・大和町三丁目バス停付近)」というルートに『馬橋中央通り』(現・馬橋通り)を開通させる。後は「果報は寝て待て」の心境で、朗報を待っていたのである。
鉄道省では大正9年の春、馬橋中央通りと鉄道の交差する地点(現・杉並学園高校の東側)に「馬橋駅」を新設することを正式決定した。ほどなく馬橋村には「新駅の開設願い、用地提供願い、図面などの申請書類を提出するように」の指示が届くのである。こうして馬橋駅の新設は本決まりとなり、阿佐ヶ谷村と馬橋村の駅誘致戦争は、馬橋村に軍配が上がるかに見えた。
ところが思いも寄らぬ方向に話は急転する。
駅用地の提供を求められた村民は、「われわれ貧乏人には、鉄道なんかに乗る用事なんかはない。駅なんかできて得をするのは一部の金持ちだけだ」と、駅新設に反対するのだ。駅誘致に一枚岩で取り組んできた、馬橋村の人々の間に亀裂が入るのである。
駅新設に熱心だった有志は、反対派の一軒一軒を尋ねて必死に説得した。だが、どうしても納得が得られず、鉄道省に申請書類を提出できなくなった。そしてついに時間切れとなり「新駅誘致」は断念せざえるを得なくなった。
こうして「馬橋駅」の開設は、幻と終わるのである。
馬橋駅の誘致運動は、分裂気味で暗礁に乗り上げている。このことを漏れ聞いた阿佐ヶ谷村の村民は「ここぞとばかり」に、改めて猛烈な誘致運動を再開する。そこで「駅用地をすべて寄付するので、ぜひ阿佐ヶ谷に駅の新設を」と、用地寄付の条件を土産にして陳情したのだ。
だが鉄道省は、「新駅はあくまで、中野駅~荻窪駅の中間地点に設置する」との方針を変えない。なにしろ阿佐ヶ谷は、中野駅から2.6キロメートル、荻窪駅から1.4キロメートルの場所にあり、とても中間地点とは言いにくい位置にあった。だから阿佐ヶ谷村民の陳情に対して、鉄道省の回答はにべもなかったのである。
「阿佐ヶ谷は中間地点でもなんでもない。荻窪駅のほうに片寄りすぎている。それに、あんな竹やぶや杉山ばかりの場所に駅を造るのは無理な話だ」
阿佐ヶ谷への新駅設置が悲願の村民代表は、ワラにもすがる気持ちで、青梅街道の南側(現・成田東四丁目)に住む愛媛県選出の実力代議士に対して、「駅の敷地は、私が全部提供するのでぜひ阿佐ヶ谷に駅を」と願い出た。政治力に頼ることにしたのだ。
そこで代議士は、ある妙案をあみ出す。「中野駅~荻窪駅間に二つの駅を設置する。阿佐ヶ谷のほかに、中野よりへもう一つの駅を設置すれば、阿佐ヶ谷が一方に片寄った場所とはいえなくなる。この方向で鉄道省と交渉してみましょう。」
代議士の取り組みが功を奏したのか、やがて鉄道省から「中野駅と荻窪駅の間は一駅でなく、ニ駅を設置する。」の朗報が入った。中野・荻窪間の駅間の距離は平均1.3キロメートル(中野・高円寺1.4キロメートル、高円寺・阿佐ヶ谷1.2キロメートル、阿佐ヶ谷・荻窪1.4キロメートル)で、荻窪・吉祥寺間の平均1.9キロメートル(荻窪・西荻窪1.9キロメートル、西荻窪・吉祥寺1.9キロメートル)に比べて短くなっているのはこのためである。
阿佐ヶ谷駅の当初の場所は、踏切りの東側(中杉通りより高円寺寄りの現・阿佐谷南二丁目)に造るつもりだった。だが、鉄道省からは「中野駅と荻窪駅間の2.4マイルを3等分した0.8マイルの地点に設置するので、踏切りの西側の場所(いまの阿佐ヶ谷駅の場所)土地740坪を寄付せよ」と申し入れてきた。
だがそこは誘致運動の村民代表の土地でなかったため、地主である三人に用地提供を呼びかけた。しかし地主は、先祖代々の土地を放すことに難色を示し、「無償では嫌だ。半分の370坪は無償で提供するとしても、残り半分だけは代替地を提供して欲しい」と注文をつけたのだ。代表は「言っていることはもっともだ」と、申し入れを受け入れて代替地を提供、駅用地を確保したのである。
地元では、「代議士の力添えで駅が開業できた」と、その感謝を込めて礼金を持参したが、代議士は頑なに受け取らなかった。「それでは、代議士邸の玄関まで人力車でも楽に通れるような道を作って、お礼に変えさせていただこう」と、駅から青梅街道までの道路を拡張したのだ。この道路こそ、現在でも買い物客でにぎわう「阿佐ヶ谷パールセンター商店街」なのである。
阿佐ヶ谷村から駅の設置を持ちかけられた高円寺村では、「願ってもない朗報」と駅開設に向けて動く。
高円寺駅の場所は当初、現在の駅から100メートルほど中野寄りの環状7号線(当時はなかった)あたりを予定していた。
だが周辺の住民から「駅ができるとうるさくなる」「予定地の南側に、ウチの大きな杉林があるが伐採したくない」などと反対された。さらに、「この場所では、中野駅に歩いても10分ほどで行ける。わざわざ駅を造ることもあるまい」と駅不用論まで飛び出すのだ。こうして中野寄りの駅新設案はお流れになるのである。
そうすると、環状7号線西側の複数の地主が「それではウチの方で引き受けましょう」と駅の用地600坪を寄付して、いまの場所に落ち着くわけだ。もっともこの地主は、馬橋駅構想の旗振りやくでもあり、駅をなんとしても欲しかった一人である。本人も以前から自分のスイカ畑を「この土地は駅にするのだ」と、五~六年間も草ぼうぼうの状態にして駅設置を待ち望んだという。
北口(北口通り)は、道が2.7メートル以下しかない畑道で、大八車が通るのがやっとというほど狭かった。そこで村人が、3.6メートルほどの道路に拡張したが、あまり通る人がいなかったので草が生い茂って苦情も出されたという。
一方南口では、駅前から青梅街道までの道路を新設しようとした。しかしご多分に漏れず反対者がいたため「道ができれば必ず得をする」と説得して、ようやく完成した道路というわけだ。この道路こそ、真夏の高円寺を興奮のるつぼにさせる「阿波おどり」で賑わう現在の「新高円寺通り」である。
駅が開設された日、祝いちょうちんを吊り下げたり花火を上げたりして、人々は村ぐるみで「高円寺駅開業」をお祝いしたという。
鉄道省はすでに中野~荻窪間とともに、荻窪駅と吉祥寺駅の中間点にも一駅を開設することを決定していた。駅間も短かったので、阿佐ヶ谷村や馬橋村のような村同士による駅の争奪戦はなかった。
だが以前から「鉄道こそ村の発展に欠かせない。わが地区にぜひ駅がほしい」と、駅の誘致に動いていた当時の井荻村村長(西武新宿線の駅確保にも尽力している)は、駅のスムーズな実現のために一大運動を展開することにした。
駅の候補地は、荻窪~吉祥寺間のほぼ中間地点である、当時の井荻村二ツ塚の現・西荻窪駅がある場所である。
しかし駅の新設を実現するには、村としてもそれなり負担を覚悟で鉄道省と交渉しなければならない。それは荻窪や阿佐ヶ谷・高円寺と同様に、駅用地を寄付することであった。
ところがいざ駅建設のために用地を寄付するとなると、先祖代々からの土地を手放さなければならないので二の足を踏む農民も多い。なにしろ井荻村が用意しなければならないのは用地だけでも、金額で換算すると2~3000円にも及ぶ多額になる。
だがすでに区画整理なども手がけ、村の発展に先見の明があった村長は強力なリーダーシップを発揮して、用地の寄付を求めて村内を歩いた。その結果数ヶ月後には、村長自らの寄付と併せて6000円近くを集めたのだ。駅用地を提供してもなお、お釣りが来るほど十分な寄付があり(実際掛かった支出は5900円だったといわれる)、差し引いた残金は、駅舎や道路の改良費に充てられた。
寄付者は井荻村民だけでなく、東京市内の麹町、赤坂、芝、浅草など広域に及んだ。中には、競馬の有馬記念で有名な有馬頼寧(よりやす)ら、井荻村に別荘をもっていた人々も寄付に応じたという。
用地の確保にも目途が付き、それを条件に村長は根気よく鉄道省と交渉を重ねた結果、駅新設が本決定となった。
駅ができるとなると、青梅街道から駅までの道路が必要となった。そこで村長は、当時幅2.7メートルしかなかった狭い道路を「三間(5.4メートル)道路」に広げようとした。地主に相談すると「耕地が減少する。耕地の減少は収入の減少である。自分だけ損をするのはいやだ」と猛反対をうけるのだが村長は説得してまわった。「道路がよくなれば農作業が楽になる。そうすれば土地効率が高くなるから減少分は十分カバーできる」
だが、反対者の中には「村長を殺せ」と、役場に押し寄せる者もいたという。いまの「北銀座通り」は、こうして完成したのだ。
西荻窪駅は、村長の強力なリーダーシップが実って、阿佐ヶ谷・高円寺駅とともに大正11(1922)年7月に、村民待望のオープンとなるのである。
中央線(甲武鉄道)が杉並地域の各所に停車すると、村落の人口も急増していく。その後も高架化・荻窪再開発など、様々なドラマを演じながら、オレンジ色の中央線はきょうも杉並区民の足として、私たちのために走り続けている。
出典・参考資料
『杉並区史』『杉並区年鑑』『杉並の交通物語』『杉並区史探訪』『杉並風土記』『荻窪百点』『新杉五ものがたり』『阿佐ヶ谷駅50年史』「馬橋稲荷神社HP』『米寿秀五郎翁』『躍進の杉並』『炉辺閑話』など