杉並清掃工場建設をめぐる「東京ゴミ戦争」

杉並清掃工場の建設位置

杉並清掃工場は昭和41年に東京都が高井戸地区に建設することを発表してから紛糾し、改めて建設場所を選定し直してみたが、最終的に高井戸に落着いた経緯がある。しかし元々は高井戸地区でない場所に計画されていたことはあまり知られていない。

(1)最初の計画地は西田町
東京の発展とともに塵芥焼却施設の増設が必要となってきたので、東京市は周辺区域9箇所に塵芥処理施設の建設を計画し、昭和14年5月に内務大臣名で都市計画決定が告示された。それは蒲田、玉川、千才、杉並、石神井、志村、足立、葛飾、江戸川(以上 決定告示の表記による)の9施設でその大半は現在も操業中の清掃工場施設に相当している。

杉並は西田町に位置し現在の善福寺川緑地となっている場所で五日市街道からの搬入を想定していたようである。計画面積は1.66ヘクタール、焼却炉4基となっている。焼却能力は一日10時間操業で一基65トンとして計260トンということになる。搬入対象ゴミを杉並区に限定されたわけではないが、当時としてはこれで十分と思われた能力だったのだろうか。因みに現在の杉並清掃工場は杉並区内ゴミ限定で一日600トンで合意されている。
この計画は戦争の激化、戦後の混乱もあって結局具体化されないままに終わっている。
しかも戦後昭和32年にはこの予定地を含めて善福寺川緑地として都市計画決定され、順次用地買収が進められていったが、塵芥焼却施設計画の扱いは不明確である。

(2)上高井戸への建設計画とその後の検討過程での5箇所の建設候補地
東京都は昭和41年に杉並清掃工場を高井戸地区(井の頭線高井戸駅前、環状8号線近くの水田地帯)に建設することを発表し地元説明に入った。これに地域住民が反発し紛争となった。紛争の経緯は別項で詳述するが、紛争の途中経過で予定地を一旦白紙に戻し、改めて杉並区内で適地を検討する作業が都区懇談会で行われた。区内24箇所の候補地から5箇所に絞って検討した。その5箇所とは高井戸のほか、NHK富士見ヶ丘運動場、都立農芸高校実習農場、日産自動車荻窪工場、都立和田堀公園である。その当時(現在もまだ)まとまった空地が杉並区内のあちこちにまだ残っていたということである。この五候補を絞り込むために「デルファイ評価」が適用されたが、一回だけの評価で高井戸に決定している。

現在の杉並清掃工場の全景

現在の杉並清掃工場の全景

杉並清掃工場建設紛争の経緯

(1)杉並清掃工場建設紛争の経緯
杉並清掃工場建設紛争は昭和41年の建設計画発表から昭和49年の和解まで長期にわたったが、なぜこのように紛糾したのであろうか。

ア 突然の計画発表
戦後の復興期を経て東京オリンピックも開催され高度成長期に入っていたので東京都区部全体としても杉並区としても清掃工場の必要性は高まっていたのであろうが、高井戸に清掃工場を建設する話は、杉並区役所或いは議会筋には事前協議があったのかも知れないが地元には全く突然に示されたものであった。それ以前にも区内でいくつかの候補地が検討されていたがその都度、地元の反対運動があって詰切れなかったという事情もあったようである。

イ 最初の計画地(西田町)からの変更の経緯が明確に示されていない
別項(2)に報告したように、当初の都市計画決定が取消されていないまま公園緑地計画となりその都市計画との関連も明確に示さないまま別途高井戸に計画したことの矛盾は十分説明されていない。

ウ 革新都政美濃部知事の不可解な対応
高井戸建設計画は東京オリンピックを主導した東知事時代であったが、直ぐに華々しく登場した美濃部知事に代わった。革新都政を標榜した美濃部知事は対話路線を重視したが杉並清掃工場建設問題では住民との対話重視の姿勢と公共事業を推進すべき行政責任者としての強権的立場の間を揺れ動き、紛争は長期化してしまった。

エ 杉並区及び杉並区地域住民の対応
清掃事業は東京都の所管で区役所は直接責任がなく、このような重要な地域社会の課題に対して明確なスタンスで対処することが出来なかった。また杉並区民全体としても迷惑な施設はどこか他所の場所(区外、或いは区内他地区)でという意識でいたようである。

オ 決定手続き上の問題
都市計画新法制定直前で都市計画決定手続き上住民参加過程は保証されていなかったので、決定後に紛糾することが、杉並清掃工場に限らず多かった。

カ 江東区の不満
東京都のゴミ処理施設が集中していた江東区の不満は紛争に輪をかけたようだが、結果的にはこれを契機に紛争は収束に向った。

(2)江東区がからんで「東京ゴミ戦争」へと発展
東京ゴミ戦争は江東区vs杉並区の対立の構図と捉えられ勝ちであるが真実はどうであろうか。

ア 江東区の不満
江戸時代以来の埋め立て地で、近代になってからも市内ゴミの埋立地や焼却場等の施設が過度に集中していた江東区は東京都の清掃行政に不信感を持っていた。東京都は昭和14年の計画を引き継ぐ形で周辺部(大田・世田谷・練馬・板橋など)において清掃工場の建設を進めていたが、杉並だけが住民の反対で建設計画が進展しないことに不満を持ち、ついに杉並区内ゴミの江東区持込を実力阻止する事態となった。(昭和47-48年)

イ 美濃部知事の「東京ゴミ戦争」宣言
このような事態を踏まえて当時の美濃部都知事は都議会において「東京ゴミ戦争」宣言として報告した。東京ゴミ戦争とは東京都全体としてゴミ処理問題が困難に直面していることを表現したものであろうが、具体的には清掃工場建設を廻る高井戸地区住民と東京都との戦いを中心として江東区の東京都(23区を控える)への抗議、江東区と杉並区の対立、潜在的には杉並区内での高井戸地区と他地区(区役所も?)とのせめぎ合いも含んだものと考えるべきであろう。

ウ 成田空港闘争との関連
公共施設建設反対運動という意味ではほぼ同時期、成田空港建設反対運動が盛んで、高井戸地区へも支援申し入れがあったようだが、高井戸地区住民は他所からの支援は全て辞退して自主闘争に徹した経緯があった。

昭和47年1月28日 現地対話集会後共同記者会見に臨む 美濃部都知事以下の都幹部と反対同盟代表  「高井戸の今昔と東京ゴミ戦争」内藤祐作氏著より)

昭和47年1月28日 現地対話集会後共同記者会見に臨む 美濃部都知事以下の都幹部と反対同盟代表 「高井戸の今昔と東京ゴミ戦争」内藤祐作氏著より)

和解条項に基づく杉並清掃工場と高井戸市民センターの建設

(1) 和解条項の骨子
昭和49年11月25日東京地方裁判所において成立した和解条項によって杉並清掃工場は建設されることになったが、和解条項の骨子は要約すると以下のようなものである。

ア 清掃工場の計画・建設及び運営は住民参加方式による周辺住民の合意が必要である。

イ 清掃工場は最新鋭の公害防止施設を備え、漸次改良を加え、公害の未然防止を図る。

ウ 杉並区内発生ゴミに限定、一日焼却量は600トンとし、専用搬入路を通じて搬入する。

エ 周辺地区を整備し敷地内に集会施設等の利便施設を整備する。

オ その他、補償条件等は省略

(2) 計画建設協議
和解条項に基づき、周辺住民代表、杉並区関係者、東京都職員で構成する計画建設協議会が
昭和50年に設置されて工場及び利便施設の建設完了まで協議が続けられた。

(3) 杉並清掃工場の概要
敷地面積4.3ヘクタール ゴミ焼却炉 300?/日×二基 他に予備炉一基(計 三基設置) 
環状8号線立体交差部から専用搬入路設置、排気煙突高さ160m(10m掘下げた地盤面から)

(4) 高井戸市民センター各施設
清掃工場敷地に約1ヘクタールの人口地盤を設けその上に広場、集会施設、温水プール等を設置した。これらは地域住民の利便施設として杉並区が設置管理するが、その運営には地域住民が参画することになっている。

高井戸区民センター(2006年)

高井戸区民センター(2006年)

高井戸地区住民の関わりと杉並正用記念財団

(1) 杉並正用記念財団の設立
清掃工場建設反対運動を展開したのは「杉並清掃工場上高井戸地区建設反対期成同盟」に参加した高井戸地区住民で町会・自治会を中心に多数の住民が参加したが、訴訟に参加し原告に名を連ねたのは工場予定地の地権者「地主団12名」と一般住民「法斗団」516名及び補助参加4222名の総計4750名であった。 
このうち地主団は地域の高井戸の中心に位置する小字名正用に因んで「正用会」という組織を作っていた。正用会のメンバーはこの激しい紛争が和解によって解決したことを記念し、後世にその精神を伝えるために補償金の一部を拠出して設立したのが財団法人杉並正用記念財団である。(一項参照)

(2) 杉並清掃工場運営協議会
和解条項に基づいて建設された清掃工場の操業・管理運営について周辺住民の意見を反映するために設置された運営協議会には計画建設段階に続いて地元住民代表として正用記念財団のメンバーが参画している。この協議会は清掃工場関係者、杉並区・議会関係者のほか地元自治会ほか団体代表も参加しているが正用記念財団関係者は和解条項に沿って工場の操業が適切に運営されていること確認するために積極的に活動している。

(3) 高井戸市民センター各施設の運営管理
清掃工場の建設に伴って設置された高井戸市民センターの各施設の管理運営にも正用記念財団は積極的に参画している。即ち高井戸地域区民センター及び高齢者活動支援センターの運営や協議会委員を推薦したり地域イベントへ助成している。また市民センター広場も地域住民の意向に沿った利用がなされるよう杉並区から管理業務を受託している。

センター広場の秋まつり

センター広場の秋まつり

ゴミ清掃・リサイクルの新たな展開

東京ゴミ戦争が収束し、裁判上の和解が成立してから30数年が経過し当時としては画期的な公害防止設備を備えた杉並清掃工場もいつの間にか23区で最古参の工場となっていた。その間清掃事業の都区移管があり清掃工場も清掃一部事務組合が管理する体制がとられている。 

またゴミ清掃を巡る社会状況も大きく変化し大量生産・大量消費から地球温暖化などの環境負荷問題、省資源問題、ゴミ最終処分場の逼迫問題が一般住民にも意識され、リサイクルも浸透しゴミ発生量も目立って減少している。 
このような状況のもとで杉並清掃工場を巡って新たな展開が予想される状況にある。
 
(1) 清掃事業都区移管と清掃一部事務組合の設立
平成12年4月東京都区部の清掃事業は都区制度改革の一環として東京都から23の各区に移管された。 具体的にはゴミの収集・運搬は各区それぞれが清掃担当部課を設けて実施しているが、清掃工場等の中間処理施設は23区内で共同処理する必要があったので、新たに「東京二十三区清掃一部事務組合」を設立して一括処理する体制となった。なお東京湾埋立地における最終処分場の業務は東京都の仕事として残されています。

(2) 清掃・リサイクルの最新動向
地球温暖化などの環境問題、省資源問題、最終処分場の逼迫などからゴミ処理・リサイクルのあり方が問われていますが、緊急課題として最終処分場問題から逆算しての生産・流通・廃棄・処分のシステムを再構築することが課題となっています。資源化やリサイクルの仕組みも相当に普及してきましたが、最近では廃プラスティックの熱回収(焼却してエネルギー資源として活用する)なども検討されています。 

(3) 杉並清掃工場の設備更新
昭和57(1982)年に最新鋭の公害防止施設を備えて完成した杉並清掃工場も20年以上経過して現在では23区内では最古参の工場となってしまいました。清掃・リサイクルをめぐる社会情勢や清掃行政組織も大きく変化した中で今後の杉並清掃工場は如何にあるべきか今後の大きな検討課題である。

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高井戸区民センターで開催された環境博覧会

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DATA

  • 出典・参考文献:

    「東京ゴミ戦争」 財団法人杉並正用記念財団  昭和58年刊行
    「高井戸の今昔と東京ゴミ戦争」 内藤祐作著  平成17年
    「東京ゴミ戦争と財団法人杉並正用記念財団」 平成17年
    「江戸のごみ 東京のごみ」 杉並区郷土博物館 平成9年

  • 取材:石井晴美
  • 掲載日:2006年09月12日
  • 情報更新日:2022年04月18日