佐々木さんは毎日井荻中の周辺や校庭をジョギングするのが日課である。5年前のある日、いつものようにジョギングをしていると、ある男性が突然佐々木さんに声をかけてきた。
「ぜひ、うちの生徒たちの指導していただけませんか?」
声をかけてきた男性、彼は杉並区立井荻中学校・陸上部顧問の先生だった。
「フォームとか、スピードが普通の人と違う。『こいつただものじゃないぞ』ってパソコンを開き、インターネットを開いてみたそうです」と笑う佐々木さん。
さらに翌日、顧問の先生が校長先生とともに佐々木さんの自宅を訪れ、再度コーチの件を打診される。杉並区に引っ越して来てまだ日が浅かった佐々木さんだったが「ちょうど早稲田大学の教授を退職した後だったし、これからは何より地域に貢献するのもいいかな、と思い引き受けることにしました。」
以来、佐々木さんは井荻中・陸上部外部指導員(コーチ)として、ほぼ週2日の放課後に生徒たちを指導している。佐々木さんのモットー、それは生徒たちの前で見本を示すこと。自ら老体にムチ打ってお手本を示す。一流の選手たちを指導してきた佐々木さんの話だからこそ聞ける話。それは生徒たちにとっても説得力があるのではないだろうか。アドバイスを受ける生徒たちも一生懸命だ。
自宅目の前、歩行路をはさんで井荻中のグランドなので、ベランダから「おーい、フォームが乱れてるぞ!」とトレーニング中の生徒たちに声をかけることもあるという。
「中学生時代ってこれから可能性を伸ばしていく時期。今は芽が出なくても後で出ることがあるしね。その時のために今できることをアドバイスし、その子の芽が出る時期まで大切にする。芽はいっせいに出るわけじゃない。子どもによって時期も違うし、出る場所も違う。だからこそ一人一人の芽を見のがすことなく、大切に育ててあげたいんだよね」と話す佐々木さんの言葉は「一流の選手たちを指導してきた」という経験があるからこそ。何より子どもたちに対する温かい愛情が感じられる。
佐々木さんのこれまでの人生、最初は選手としてオリンピックに出場」ということが夢だったが、それが「指導者としてオリンピックに参加ということに代わる。そのミッションを背に選手たちを大切に育て、指導していくことを実践してきた。「中学生の指導で大切なこと、それはスポーツの多くは競争競技だからもちろん勝つことを目標にすることは当然。しかし『教育』の中でのスポーツは仲間づくり、相手への思いやり、あいさつ、団結心、セルフ・コントロール、そしてきずなだと思うのです。次の社会へと巣立っていく子どもたちへのプレゼントを、大人たちがしてあげなければならない義務があると思っています。」
東京・墨田区の下町で小学校時代を過ごした佐々木さんは当時下駄履き50メートル走ではいつも一番。駆け足の素質は十分ある、ということは自分でもなんとなく理解していたという。
加えて叔父が当時青年団の陸上走り高跳びの選手で、戦争間近だというにもかかわらず、日曜日ごとに近所の小学校の砂場で手製の走り高跳び用スタンドとバーを設けて練習に打ちこんでいた。「僕は叔父の練習を毎週見ていたのですが、僕の身長よりはるか上を楽々クリアする姿を尊敬しながら見惚れていました。」
その後戦争は激しくなったため、小学校集団疎開で茨城、縁故疎開で岩手で過ごす。中学途中で終戦、東京へもどったが、中学、高校時代は勉強そっちのけで陸上競技に打ちこみ「いつの日かオリンピックへ」という夢を持っていた。
「ところが自分の素質からしてとてもオリンピックに出られないと悟ったんです」と佐々木さん。いつも一等賞だった佐々木さんなのに、そんなに簡単にあきらめられるものだろうか?
「オリンピックは超一流の選手でないと出られません。私は確かに走るのは速かったけれど、もっと速かったり、跳んだりするヤツがたくさんいるんですよ。」
オリンピック出場はあきらめていた佐々木さんなのに、高校時代、お別れスピーチで「僕はオリンピックに出る!」と言い切ってしまったのだ!
早稲田大学では3分の2が陸上、残りが勉強。大学の陸上部は全国の「一等賞」たちが続々とやってくる。佐々木さんは目立たない学生生活を送る。
その時すでに「選手がダメならオリンピック選手を育て、コーチとしてオリンピックに参加する手がある。」と思っていたという。
卒業後、公立中学校教員になり、ここで中学陸上日本一の育成を目標として夢中で指導しながら陸上競技の月刊誌にひたすら投稿した。その努力のおかげか、陸上競技界では少し「佐々木秀幸」という名前が知られるようになる。縁があって1964年に東京オリンピックが開幕時には外国選手付きの役員をした。
陸上競技月刊誌への投稿、東京オリンピック役員の外国選手付きとなり、世界陸上界のことを知ることとなり、夢を一歩すすめるために、10年間勤務した公立中学校教員を退職、東洋大学陸上部指導者として招かれる。
安定した公立中学の教員を退職することに最初はためらいもあったという佐々木さん。しかしこれが転機となり、指導者としての道が一気に開けていく。
「大変なことも多々ありましたが、外国に出かけて勉強のチャンスを頂いたりと、陸上を指導するという『コーチ学』に全身全霊没頭できました。」その間、ミュンヘン、モントリオール、ロスアンジェルスとオリンピックに選手を帯同、選手の育成に努めてきた。
「選手としては出場できなかったけれど、教え子たちとともにオリンピックに参加するという夢は果たせました。またモスクワ、バルセロナオリンピックではテレビ解説員という大役もいただき、自分のための勉強にもなりました」
東洋大学で23年間勤務後、縁あって母校の早稲田大学人間科学部の教授となり、引き続き選手たちを指導。15年間勤務後、2003年定年退職した。
スポーツは観るよりトライです
「順風満帆」な指導者人生を歩んでこられた佐々木さんだが、これは本人の努力もあってのことだと思う。「僕はオリンピックに出る」という高校時代のスピーチが根底にあるのかもしれないが、何よりいつも笑顔を絶やさない。これが人をひきつけてしまうのかもしれない。
「スポーツは観るのもスポーツの参加ということでいいですが、せっかくなのでトライしてほしい。たとえば、だれもができて、お金のかからないジョギングなど。距離やタイムなどなにか目標を持っていると『達成したい!』という思いに変わってきませんか? 一人でもいいし、気が合う仲間といっしょにでもいい。」
スポーツを含め、他の人となにかをするということは「共有する」こと、すなわちその時間を一緒に過ごすことである。それによってつながりも密接になってくる。佐々木さんは「達成したときの喜びや、爽快感はなにものにも代え難い」という。
佐々木さんの話を聞いていると「努力」したからこそ「チャンス」が巡ってくるのだな、と思えてくる。陸上、そして走ることに「愛」を注いでいるからなのかもしれない。
何より井荻中陸上部の生徒たちは、元気があってとても気持ちが良い。それは佐々木さんのそんなスポーツを愛する「気」が生徒たちに伝わっているからだろう。
「走ることは楽しいですよ。」と佐々木さん。まずは私も手軽にできるジョギングを始めてみるのもいいかもしれない。
取材を終えて
私が取材にうかがった時、ちょうど井荻中陸上部の生徒たちを指導中だった。佐々木さんは、背筋をピシッと延ばし、とても78歳に見えない。いつも柔和な笑顔で人を魅きつける力がある。東洋大学、早稲田大学、いつも早朝から遅くまで指導しているので、常にグランドのそばが自宅だったという佐々木さんだが、2005年に杉並区に移住。それまではあまり縁がなかった場所だったそうだが、中学校グランドのそば、リハビリが必要のときの病院が近いということもあり決めたそうだ。今では杉並区のスポーツ指導にはなくてはならない存在に。ジョギング中の佐々木さんを見かけたら、絶対に「佐々木さんだ」とわかる。それくらい美しいフォームなのだ。スポーツの秋、私も何かスポーツをはじめてみようか。
【スポーツ活動歴】
1972年 第20回オリンピック(ミュンヘン)コーチ
1976年 第21回オリンピック(モントリオール)コーチ
1980年 第22回オリンピック(モスクワ)テレビ報道解説員
1983年 第1回世界陸上競技選手権大会(ヘルシンキ)テレビ報道解説者
1984年 第23回オリンピック(ロスアンジェルス)選手団役員
1987年 第2回世界陸上競技選手権大会(ローマ)テレビ報道解説者
1988年 第24回オリンピック(ソウル)選手団役員
1992年 第25回オリンピック(バルセロナ) テレビ報道解説者
著書、翻訳書、監修その他、多数
佐々木秀幸 プロフィール
1932年生まれ、秋田県出身。スポーツ解説者、指導者。早稲田大学教育学部(語学)卒業。学生時代は跳躍の選手として活躍。公立中学校教員10年間を含めて、東洋大学並びに早稲田大学教授など教育畑を歩む。その間には日本陸上競技連盟のコーチ、役員としてオリンピックに参加したほか、専務理事として組織の強化に奔走。1994年日本トライアスロン連合の初代理事長。現在は日本陸上競技連盟名誉顧問副会長、日本アンチドーピング機構理事、元東京マラソン組織委員会事務総長。2004年に瑞宝小綬章受賞。現在、今川在住。地元では井荻中学校陸上部指導員として陸上部のコーチや、同中、学校支援本部本部長など。
※佐々木秀幸さんは2024(令和6)年8月にご逝去されました。故人のご功績を偲び、心からご冥福をお祈り申し上げます。