志津雅美さん

「カラスかなぁ~」と思っている

「僕の名前の雅にはカラスの意味があります。僕の彫刻はカラスかなぁ~と思います」
カラスは、鳴き声や姿形が不気味だと忌み嫌われる一方で、好き嫌いはともかく、ごく身近で人々の生活に関わり続けてきた鳥である。志津さんは、1980年代後半から1990年代初頭にかけて、杉並区の川沿いや公園などに置かれている、数多くの彫刻を手がけてきた。作品には、作者名が刻まれておらず、なんの説明書きもない。存在を主張することなく、住民や訪れる人たちの暮らしをただじっとながめている。いまでも道行く人々の心をなごませる路傍の彫刻たちを、志津さんはどういったきっかけで、どのように作り出したのだろうか?

紆余曲折を経て辿り着いた場所

子どもの頃から彫刻に興味を抱かれていたんですか。

中学のときの卒業記念および校舎移転記念にセメント製のモニュメントを作ったら、新聞に載ってしまって。それがきっかけだったかもしれません。高校は、下高井戸の都立松原高校に通いました。美術部で一緒だった同級生の舘くんが、のちに師となる井手則雄氏(彫刻家・美術評論家・詩人)の親戚で。3年の時、デッサンを見てもらうために、南荻窪にあった井手則雄のアトリエへ連れて行ってもらったんです。その後、1年浪人して、武蔵野美術大学の彫刻科に入学しました。ただ、その年に父が亡くなってしまい、大学は1年で中退。父が経営していた新宿の会社に3年ほど勤めました。

ここで一度、彫刻から離れてしまうんですね。

ええ。青山・シナリオ研究所に通ったり、新宿にあった日活名画座や西荻窪駅近くの鉄工所に勤めたり……。彫刻とはまったく関係ないことをする一方で、井手則雄氏が運営する南荻窪の「造園美術コンサルタント(LAC)」へときどき手伝いに行っていました。「造園美術コンサルタント」は、1972(昭和47)年に井手則雄氏が宮城教育大学の教授になるなど経営者たちが不在になり、3年間の休業後、消滅してしまいました。それでも、僕はその場所で公園や幼稚園のプレイスカルプチャー(遊べる彫刻)を作ったり、週に一日だけの「荻窪工作教室」を開いたりしていました。そのなかで、彫刻や公園について改めて学んでいったんです。師であった井手則雄氏はもちろん、この道に導いていただき、文化的な生活を教えてくださった井手文子さん(女性史研究家、井手則雄氏の友人、名前はペンネーム)にはたいへん感謝しています。

人々の生活に身近なお地蔵さんであって欲しい

はじめて杉並区で彫刻のお仕事をされたのは、1989(平成元)年ですか。

1981(昭和56)年に「株式会社造園美術」(のちに「株式会社おほしさま」と改称)を立ち上げたんです。公園に置く彫刻や遊具の設計、施工を中心に仕事を請け負っていました。都の仕事で、杉並区内の街路樹の計測をしたこともあります。事務所は、荻窪南口商店街にありました。そういった仕事をしていくなかで、たくさんの人に出会い、さまざまなことを学びました。杉並区では、1988(昭和63)年から神田川の河川環境整備事業が始まり、そのプロジェクトに関わることになりました。改修した神田川沿いを人々が憩い、やすらげる場所にしようという計画です。きちんとした設計図があって、僕はその図面に“花を描く”ような仕事をさせていただきました。線と数字だけの設計図は、いわば堅い法律書のようですが、そこに川辺の小鳥やかるがもの親子の彫刻のイメージ画を配置することで、読む人たちも憩い、楽しめる図書になればいいなと思っていたんです。

(1)…下高井戸の塚山公園に置かれた「山の幸、川の幸」の彫像
(2)…神田川緑道の富士見ヶ丘駅周辺で見られる彫像「ふれあい」
(3)…永福橋近くの神田川緑道沿いに並ぶ「か・ん・だ・が・わ・の・お・も・い・で」の絵陶板
(4)…三方の青銅製の地蔵が「さ・ん・ぽ」と言っている。久我山駅近くの清水橋あたりにある
(5)…和田2丁目の和田公園にある青鍋石の添景物「家族」。輪になって会話をしている

写真:妙正寺公園近く作品「春の子」
屋外に置かれる彫刻や遊具を作るときに心がけているのは、どんなことですか。

路傍の道祖神やお地蔵さんのようなものだと思って作っています。公園のシンボルじゃなくて、マスコット。最初にカラスの話をしましたが、道祖神やお地蔵さんも毎日の暮らしと密接につながっていますよね。僕が作った彫刻たちも、雨風に耐えて汚れたり壊れたりしながらも、その場所で“生きて”いってほしいと思っています。美術館や博物館に置かれているものを見ると、きちんとケースに納まって、ふれることができません。なんだか「お墓参り」のようだなと。西洋陶磁器は、完璧ゆえにちょっとキズが付くと台無しに感じられます。一方、日本のやきものは、欠けた部分や金継ぎ修理したところがむしろ味わい深く感じられるんです。僕は、やきもののように、その場所で暮らす人たちとともに“生き”、おもいでの1ページに描かれたらくがきみたいな彫刻を作っていきたいなと思っています。

写真…清水3丁目にある妙正寺公園近くの妙正川沿いに置かれた「春の子」。制作された1994(平成6)年当時は、夏・秋・冬と次々に作られる予定だったが、残念ながら中止となった。自然の中にほどよく溶けこむように、あえてもともとサビやキズのある石が使われている。

「ひらがな」がイメージを広げてくれる

志津さんの彫刻は、見た目も楽しいですが、タイトルもユーモアがありますよね。

日本語の、とくにひらがなの妙を伝えられたらいいなと思っています。漢字だと意味が限定されてしまうけど、ひらがなにするとひとつの言葉からいろんなモノやコトがイメージできますよね。神田川沿いの彫刻のひとつに「川は」(1)と文字を刻んだものがあるんです。テレビ東京『出没!アド街ック天国』の「神田川」の特集のときに、この彫刻が取り上げられて、街の人たちに「川は」の言葉の続きを聞いていました。その中のひとりがおっしゃった「川は、こころのふるさと」には感心しました。でも、「は川」って、逆に読んだ方もいらっしゃったようです。制作時は、子どもが蛙を手にしている彫刻だから、「川にかえる」というタイトルもいいなと思っていたのですが、「川は」として、ふくみを持たせたんです。彫刻は視覚の、タイトルは言葉のコミニュケーション手段ですよね。彫刻で表現しきれない部分をタイトルで補足できればと思うんです。彫刻にタイトルを付けるのはいいんですが、あとで後悔することもあります。たとえば、高円寺北公園の「夢をつかめ」(2)。これは、夢という漢字をつかまえている亀の彫刻なんです。純情商店街の近くでしたから、「夢をつかめ」にして「純情」を表したかったんですが、今になって「夢もつかめ」にすればもっとよかったかなと……。

(4)…京王井の頭線 富士見ケ丘駅近くの月見橋にある彫刻「もち月うさぎ」。橋の内側四隅に杵を持ったうさぎとお餅の彫刻が置かれ、台座には月の満ち欠けが表わされている。

――後日、蛙の彫刻(3)を撮影しに出かけた。あいにくの工事中だったが、働いている方にお願いして、無事に撮影が完了。「その蛙、なんて名前なの?」と、ひとりの作業員から尋ねられた。「『かんがえる』って言うんですよ」。志津さんの彫刻について尋ねられたことが嬉しくて、胸を張って答える。「そうだと思ったよ~」と、その場にいた人たち全員から、屈託のない笑顔がこぼれた。

志津雅美 プロフィール
彫刻家。1948(昭和23)年鹿児島市生まれ。杉並区荻窪在住。1980(昭和55)年ごろから、日本住宅公団や各市役所から依頼を受け、彫刻などの制作を手がける。杉並区では、1987(昭和62)年ごろから善福寺川や妙正寺川、神田川沿いの緑道、若竹公園、和田公園、塚山公園などを飾る各種彫刻を制作し、いまも道行く人々の目を楽しませ、心をなごませている。現在も自宅兼アトリエにて、精力的に作品の創作を継続中。

DATA

  • 公式ホームページ(外部リンク):https://sizumasami.webnode.jp/
  • 取材:佐竹未希
  • 撮影:佐竹未希、チューニング・フォー・ザ・フューチャー
  • 掲載日:2010年02月25日