日本にとって、地理的にも文化的にも遠い国であるシリア。そこが悲惨な内戦状態にあることを、あなたはいつ知っただろうか。2012年8月20日、ジャーナリストの山本美香氏が、シリアのアレッポで政府軍に撃たれて亡くなったという報道で知った人も多いのではないだろうか。山本氏の自宅と事務所は荻窪にある。私たちの身近な場所から、遠い紛争地へと向かっていた山本氏の思いを、公私にわたるパートナーの佐藤和孝ジャパンプレス代表へのインタビューと、彼女の著書からたどりたい。
1996年、初めての紛争地取材となったアフガニスタンのある民家で、山本美香氏は赤ちゃんを抱いた女性に取材を試みる。しかし、英語はまったく通じない。そこで彼女は、日本語で『大きな栗の木の下で』を歌いだす。その歌声につられて、表情をくずし、笑い声を上げる女性――。
『山本美香という生き方』(新潮文庫)に記されたこの一幕は、山本氏の言葉を越えたコミュニケーション力の高さを物語っている。佐藤氏も、彼女の強みは「人に対するやさしさとか思いやり。それは世界中どこに行っても通用した」と言う。
身長154cmと小柄で、ごろごろと寝ることが好き。荻窪に事務所を構え、ルミネで買い物をする、そんな私たちの周りにいるような女性が、ジャーナリストとしてアフガニスタンやイラク、そしてシリアといった紛争地を取材し、発信し続けていた。
前述のアフガニスタン取材以来ずっと、紛争地へは佐藤氏と一緒に行っていた。技術面で互いをサポートし合い、女性しか立ち入れない場所などは山本氏が取材したりと役割分担しつつ、同じ方向を向いて活動していた。ふたりが目を向けていたのは、戦争の最前線だけでなく市民の生活だ。「紛争地帯でだって、恋をして結婚して出産して、そういう日常がある。その日常が壊されてしまうなかでも、みんなたくましく生きている。みんな泣いているばかりじゃない。笑っているし、生きている。そのたくましさは、我々にとって希望だ」と佐藤氏は語る。
1996年頃、タリバンの実効支配によってアフガニスタンの人々は抑圧された生活を強いられている、という報道がされていた。山本氏は、抑圧された女性たちはそこで泣きながら暮らしているのか、それともたくましく生きているのか、本音を知りたいという思いで現地に入る。これが初の紛争地取材であった。
そこで山本氏は“秘密の教室”に集う女性たちに出会う。タリバンが来てから、教育を受けることを禁じられ大学に通えなくなった女性たちが、友人の家を転々としながら、秘密の勉強会を開いているのだ。彼女たちは「本当の姿を見てほしい」と、自ら顔出しの取材を望んだという。山本氏は著書で、「彼女たちの心は決まっている。私は、この記録をどんなことをしても日本に持ち帰って、報道しなければならない」(『ぼくの村は戦場だった。』より)と決意を述べている。
山本氏はこの後、ほぼ毎年のようにアフガニスタンを訪れ、取材を続けた。そして2001年9月11日にアメリカで同時多発テロ事件が起きたときも、取材中だったアフガニスタンに残ると決めた。ジャーナリストは、目撃者であり証言者。その存在が戦争の抑止力になると、山本氏は考えていた。
2003年3月にはイラク戦争が開戦。山本氏は事前にバグダッド入りして取材を続けていた。同年4月8日、まさかの出来事が起きた。彼女たちジャーナリストが滞在するホテルに、米軍戦車が砲撃したのだ。彼女の隣の部屋の記者やカメラマンたちが犠牲となった。咄嗟にカメラを放り出して救助にあたったが、カメラマンは命を落とした。「私もできることなら片手で撮影して、もう一方の手で助けたい。(中略)ジャーナリストとしてはこれでよかったのかわからない」(『中継されなかったバグダッド』より)とあるように、「人命か、報道か」の正解のない問いに直面した瞬間だ。
顔見知りのジャーナリストが、目の前で戦争の当事者となってしまった。それでも彼女は戦場へ向かうことを止めなかった。「私たちは、ジャーナリストが何人殺されようと残った誰かが記録して、必ず世界に伝える。すべてのジャーナリストの口をふさぐことはできない。どんな強大な力を持った存在であっても、きっと誰かが立ち向かっていくだろう」(前掲書より)。この文章を見た佐藤氏は「すごいことを考えていたんだ。こんな魂が宿っていたんだ」と、痛烈に心に突き刺さったという。
テレビの仕事が多かった山本氏だが、伝える手段はたくさんあった方がいいと、執筆活動にも熱心だった。著書のなかには、小学生向けに書かれた『戦争を取材する―子どもたちは何を体験したのか』(講談社)もある。そこで彼女は、「この瞬間にもまたひとつ、またふたつ……大切な命がうばわれているかもしれない――目をつぶってそんなことを想像してみてください。さあ、みんなの出番です」と子どもたちに投げかけている。
2008年には早稲田大学大学院政治学研究科の非常勤講師となり、「戦争とジャーナリズム」をタイトルに教壇に立った。取材時のエピソードに加え、メディアの特性や現場に立つことの意義、バグダッドで経験した「人命か、報道か」の問いなど、若い大学院生らと議論し合った。
命を懸けてインタビューに答えてくれたものを、きちんと伝えるという責任。リアルタイムでの臨場感を伝えられる一方、すぐに流れ去ってしまう「テレビ」だけでなく、活字として記録し、未来のジャーナリストに記憶を託すことで、その責任を果たそうとしたのではないか。
2012年8月20日、内戦が続くシリアのアレッポの市街地で、山本氏は取材中に政府軍の銃撃を受け、亡くなった。享年45歳であった。もちろん彼女たちは最大限安全に気を配っていた。それは佐藤氏の言葉にも山本氏の著書にも、そこここに表れている。彼女は冒険に出ていたわけでは決してなく、ジャーナリストという職業を全うした。
2012年10月、佐藤氏を代表理事とした一般財団法人山本美香記念財団が設立された。事務所は荻窪だ。「財団の設立目的は、山本美香を残すということ。残すということは、生かすことに通じる。彼女の言霊が広がって、誰かしらに対して影響力を持つかもしれない」と佐藤氏。同財団では講演活動等のほか、すぐれた国際報道に対して毎年「山本美香記念国際ジャーナリスト賞」を贈る。そして佐藤氏は、現場に戻る。
不条理へ向けた鋭い視線、日常を送る人々に送る温かい眼差し。山本氏の持つまっすぐな視線は、彼女と接した人や著書を読んだ人によって、受け継がれていく。
▼一般財団法人 山本美香記念財団
〒167-0043 杉並区上荻1-5-2 コロナビル6階
電話 03-6915-1346 /FAX 03-6915-1349
一般財団法人 山本美香記念財団
<出典・参考文献>
『中継されなかったバグダッド 唯一の日本人女性記者現地ルポ―イラク戦争の真実』(小学館)山本美香、2003年
『ぼくの村は戦場だった。』(マガジンハウス)山本美香、2006年
『戦争を取材する―子どもたちは何を体験したのか』(講談社)山本美香、2011年
『山本美香最終講義 ザ・ミッション―戦場からの問い』(早稲田大学出版部)山本美香、2013年
『山本美香という生き方』(新潮文庫)山本美香・日本テレビ編、2014年
プロフィール
1967年生まれ。山梨県都留市出身。都留文科大学卒業後、朝日ニュースターを経て、1996年よりジャパンプレスに所属。アフガニスタン、ウガンダ、チェチェン、コソボ、イラクなど世界の紛争地を取材、テレビや雑誌等でリポートを続けた。 イラク戦争報道でボーン・上田記念国際記者賞特別賞を受賞。 2012年8月20日(現地時間)、シリア内戦の取材中、アレッポにて政府軍の銃撃を受け、この世を去る。