2014年、日本の近代化に貢献した富岡製糸場と絹産業遺産群が世界文化遺産に登録された。かつて杉並にも、明治時代から蚕糸業という日本の重要産業を牽引してきた農林省蚕糸試験場(以下、蚕糸試験場)があったことをご存知だろうか。
約70年間、高円寺を拠点としてきた蚕糸試験場は、1980(昭和55)年に茨城県つくば市へ機能を移転。歴史ある建物も5年後に解体されて、跡地は蚕糸の森公園と杉並第十小学校になっている。杉並区みどり公園課によると、「蚕糸の森公園入口の門と、公園管理事務所の建物は蚕糸試験場時代のものを補修して利用している。」とのこと。また、園内には試験場があった証として「蚕糸科学技術発祥の地」の碑が立っている。門を入ってすぐ右手に桑を植えた囲みがあるが、これは養蚕用の桑を再現したものである。蚕糸試験場時代の桑園は今の杉並第十小学校の場所にあった。
試験場の様子を覚えている地域住人からは、「塀に囲まれた大きな施設だった。建物が残っていれば富岡製糸場と同じように名所になっていたのではないか。」と懐かしむ声も聞かれる。果たして蚕糸試験場とはどのような施設であったのか、資料と関係者の証言から調べてみた。
(※関係者証言は「2-2.蚕糸試験場 証言集」に掲載)
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PDF:年表 蚕糸試験場の歴史(1.2 MB )
1909(明治42)年、桂太郎首相のもと第四回官民実業懇話会が開かれた。その席で、富岡製糸場の持ち主である原富太郎氏が次のような発言をしている。
「近年養蚕乃製糸高は年々増加の傾向に在れども、其品種の伊太利亜仏蘭西に劣れるは勿論、どうもすれば支那糸にも劣ることなきにしも非ず、(中略)今後の急務は、種紙は申すに及ばず蚕種及び元蚕種の改良統一を図るより切なるはなしと信ず。」(『日本蚕糸業史分析』)
この発言により蚕種統一問題をめぐる運動が全国各地で起こり、政府もその動きに押された結果、1911(明治44)年5月、農商務省原蚕種製造所(以下、原蚕種製造所)が設立された。これが後の蚕糸試験場である。蚕種の製造と品種改良を目的とした施設で、高円寺が本所、綾部(京都)・前橋(群馬)・福島に支所があった。
初代所長の加賀山辰四郎氏は開所式の訓辞で、蚕糸業が日本の重要な産業であること、また生糸が輸出品の第1位であることから「(蚕糸業の)前途は揚々たるものがある。」(『試験場の生い立ちと90年の歩み 蚕友文化26号』)と述べている。その一方で、競争国や人造絹糸業の進歩を挙げて、「安閑として惰眠を許さざる状況なり。(中略)広く学術的研究を深め、その成績の普及を計らなければならない。それ故に当所が設立されたのである。」と締めくくった。
その後、原蚕種製造所は、蚕や桑の品種改良など養蚕業全般の研究も担うようになり、1914(大正3)年に農商務省蚕業試験場(以下、蚕業試験場)と改称。『東京府豊多摩郡史 大正5年』で当時の記録を見ると、敷地は約10,129坪。庁舎、付属舎のほか標本室、実験室、蚕室、煮繭室など50余棟と桑園があり「規模、頗(すこぶ)る宏大」ながら、職員は「場長一人技師二十人、技手四十八人書記十四人」の計83名であった。1918(大正7)年には、大正天皇の皇后である貞明皇后が行啓し、「一層研究に励むように」とのお言葉をくださっている。
蚕業試験場では蚕の人工ふ化法が確立されるなど研究が進み、国内の生糸生産量もこの頃には創立時の約2倍に達した。沖縄や明石をはじめ全国各地に支所が設けられて、1934(昭和9)年には台湾にも飼育所が設置された。
1938(昭和13)年、製糸・絹繊維関係の研究も携わるようになったことから、なじみ深い農林省蚕糸試験場という名称に変わる。以降も、蚕の斑紋による雌雄鑑別法を発見するなど、地道に研究を重ねて収繭量の増加に貢献。国の生糸輸出量も順調に増えていった。
やがて第二次世界大戦が起こり、日本は食糧難に陥る。蚕のエサとなる桑畑が芋やかぼちゃ畑に変えられたため、蚕糸業は一時期急速に衰えた。だが『杉並風土記 中』に、蚕糸業が日本の食糧難を救ったともとれる話が掲載されている。貞明皇太后が1948(昭和23)年に2度目の行啓されたことに対し、「敗戦後の食糧難のとき、生糸・絹織物の見返り物資によって食料が外国から緊急輸入された。そのおかげで全国民が餓死をのがれた。陛下の行啓は“敗戦国日本再建の産業は蚕糸業である”とお考え遊ばされての行啓であった。(原文ママ)」と記されているのだ。
戦後、蚕糸試験場は沖縄・台湾の飼育所を廃止したものの、新たな飼育所や桑園を各地に設置しながら研究を続けていく。一方、1960年代に日本が高度成長期を迎えると、輸出の中心は生糸・絹織物から重化学工業製品へシフト。国際的な化学繊維の開発と普及も、輸出量の減少に拍車をかけた。1976(昭和51)年までの20年間は、国民所得の向上に伴う内需の拡大で、約20万トンの生産量を維持したものの、やがて生活様式の変化から着物離れが進み、絹の内需も減少。このような背景のなかで、蚕糸試験場の組織としての規模も、1958年、1960年、1968年に行われた組織改革で徐々に縮小されていった。それでも、1970年頃には発明にかかる特許262件、実用新案登録113件という業績を記録。学術書の刊行にも力を入れていた。
1980(昭和55)年、国の研究機関を集めて研究学園都市を建設するという政府決定により、蚕糸試験場は茨城県つくば市に移転する。これは、東京の人口過密を解消するための政策によるものであった。ちなみにこの時、高円寺北にあった気象研究所、井草にあった通産省機械技術研究所もつくばに移転している。
つくば研究学園都市に移った蚕糸試験場は、1988(昭和63)年、蚕以外の農業昆虫も扱う農林水産省蚕糸・昆虫農業技術研究所になる。また、2001(平成13)年には農林水産省の改革に伴って、農業生物資源研究所、家畜衛生試験および畜産試験場の一部と統合し、独立行政法人農業生物資源研究所(以下、生物研 ※)が誕生。ついに名称から「蚕」の文字が消えた。
だが、蚕の技術利用開発は現在も生物研の主要課題の一つである。絹糸から人工血管を作ったり、粉末や液体に加工して医療素材や化粧品の素材にするなど、蚕を利用した新素材や新産業の研究が進行中。また、遺伝子組み換え技術により、クモ糸の性質を持つ切れにくいシルクや、蛍光色を発するシルクも開発されている。2014年には国立科学博物館の企画展に、蛍光シルクで作られた光る十二単風舞台衣装が展示されて話題を呼んだ。これらの開発には、蚕糸試験場時代から行われていた蚕の品種改良や人工飼料の開発研究、生糸を精練する技術革新などが深く関わっている。
生物研広報室長の谷合幹代子さんは、「現在、日本の養蚕農家は500戸を割り、ピーク時の5000分の1にまで減ってしまいました。活性化しないと日本の養蚕技術が消えてしまうというところにまできています。今後、農家の方に新機能シルクを生産してもらうことで、養蚕の活性化に役立てたいと考えています。」と語る。
蚕糸試験場は時代とともに場所も名称も変わったが、杉並の地で多くの研究者・技術者の努力によって生み出されてきた成果は今後も受け継がれていくことだろう。
<追記>
※農業生物資源研究所は、2016年4月1日に国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)に統合。生物機能利用研究部門として研究活動をすることとなった。 -2016年4月19日加筆-
『新修杉並区史 中』東京都杉並区役所
『杉並区の歴史』杉並郷土史会(名著出版)
『杉並風土記 上』森泰樹(杉並郷土史会)
『杉並風土記 中』森泰樹(杉並郷土史会)
『杉並歴史探訪』森泰樹(杉並郷土史会)
『杉並区史探訪』森泰樹(杉並郷土史会)
『東京府豊多摩郡誌』東京府豊多摩郡役所(名著出版)
『東京府豊多摩郡誌 明治四十一年九月』東京府豊多摩郡役所
『東京府豊多摩郡誌梗概』
『杉並郷土史会会報合冊 』杉並郷土史会
『すぎなみの散歩道』 杉並区教育委員会
『日本蚕糸業史分析』石井寛治(東京大学出版会)
『蚕糸業の発達に寄与した主な試験研究業績』 蚕糸試験場
『蚕糸試験場創立50周年記念 研究業績沙録集』蚕糸試験場
『試験場の生い立ちと90年の歩み 蚕友文化26号(2000年)』栗林茂治
『農林水産省蚕糸試験場の沿革とそのルーツをたどる 岡谷蚕糸博物館紀要 第7号』小林勝利
『まちものがたり 第1巻 蚕がつくったまち』 杉並区まちづくり公社
『祈りと願いー杉並の絵馬ー』杉並郷土博物館
『杉並区郷土博物館 常設展示図録』杉並郷土博物館
『せたがやの養蚕ー卵から繭までー』世田谷区教育委員会
『織るー繭から織物までー』世田谷区教育委員会教育部管理課民家園係
『井口家の長屋門』 杉並区教育委員会
『東京府統計書 大正10年』東京府
『シルク大国インドに継承された日本の養蚕の技』山田浩司(ダイヤモンド社)
『たのしい理科 3年』大日本図書