2-3.蚕糸試験場 証言集 その2

【証言3】蚕糸試験場と日野桑園についてのヒアリング

2017(平成29)年11月、旧農林省蚕糸試験場日野桑園第一蚕室(通称「桑ハウス」)の「登録有形文化財 登録お祝い会」が開催された。かつて、この蚕糸試験場で研究員として勤め、今回、式典に出席した3名の先生方から、蚕糸試験場と日野桑園の思い出話を伺った。
(2017年11月11日 旧日野桑園第一蚕室にて)

左から野﨑稔先生、大井秀夫先生、山川一弘先生

左から野﨑稔先生、大井秀夫先生、山川一弘先生

職住一体だった蚕糸試験場の研究生活

――主な研究内容

大井:1949(昭和24)年から高円寺の蚕糸試験場に勤め、日野桑園第一蚕室で蚕の突然変異の発現機構(現象が起こる仕組み)の解析、環境との相互関係解明などの研究を行い、1965(昭和40)年に九州支場に異動、蚕品種の育成・改良に従事し、1973(昭和48)年以降、研究の管理調整を担当しました。日野桑園第一蚕室で行った研究は、学位論文に取りまとめました。

野﨑:蚕糸試験場の絹糸物理研究室に1962(昭和37)年~1978(昭和53)年までおり、繭の糸の太さや強さ、弾性率などを中心に研究しました。

山川:1951(昭和26)年~1980(昭和55)年まで、蚕糸試験場栽桑部の研究員でした。桑の樹形に関する栽培学的研究や、桑園管理作業における労働強度に関する研究など、いろいろな成果を学会誌や学会で発表しました。その後は国際協力事業団(JICA)の桑栽培専門家として、タイ国養蚕研究訓練センターで研究と指導を行いました。

――蚕糸試験場本場(高円寺)の生活
野﨑:昭和40年頃の蚕糸試験場は、まだまだ武蔵野の山みたいに広かった。午後5時に仕事が終わると、高円寺駅の近くに飲みに行ってました。実は研究室の机の中にもお酒をしまってて、午後5時の勤務が終了すると飲みながら研究していたことも…、いいアイデアが出てくるんですよ!

大井:高円寺は研究用の井戸水がおいしかった。九州支場で飲んでいた阿蘇の伏流水に匹敵するおいしさでした。熊本から高円寺に移住した直後の水道水はカルキが含まれ、その味にへきえきし、炊事用として研究用の井戸水を汲みに行きました。

野﨑:毎年秋には「蚕霊供養祭」という交流イベントを行っていましたね。それぞれの研究部ごとに練習をして、劇やコーラス、ダンスを披露したり。私も泥棒の役で劇に出たことがあります。このイベントは、蚕糸試験場がつくばに移転した後も続いていました。

大井:1年に1回、運動会もやっていました。職員の健康管理やコミュニケーションが目的で、ちゃんと優勝旗や賞品もあったんですよ。

野﨑:地域の人たちと盆踊りもしました。ビラを配って告知をして、櫓(やぐら)も職員が組みました。蚕糸試験場の門をくぐった左側に広場があって、そこで開催したのですが、とてもにぎわいました。

山川:栽桑部は日野桑園で研究していたので、私は高円寺で生活したことはありません。ですが、本場には栽桑部内の会議など必要に応じて時々出張しました。また、日野桑園には土壌分析の装置がないので、本場の化学部研究室に通って分析していました。

――蚕糸試験場と日野桑園
山川:日野桑園にある育種部は大量に蚕を飼育していたので、桑の葉がたくさん必要でした。また、本場の研究室で蚕を飼育するために、日野桑園から本場まで毎日トラックで桑の葉が運搬されていました。桑の生育期間は5月~11月頃までで冬は落葉します。したがって、蚕の飼育期間は夏場です。冬場の11月~翌年4月までは、研究員は試験研究を取りまとめたり、会議や学会発表などに出席していました。冬は高円寺で、それ以外を日野で研究していた職員もおりました。

大井:私も一時期、冬の間だけ本場で働く渡り鳥生活でした。日野に来たときは仲間から「本場組」と呼ばれて、本場では「日野組」と言われていました。異動が短期間で定住地がなかったので、国会議員の選挙権がなかったんですよ。一方当時、日野市長選挙には投票権が認められ、一票を投じたものでした。

山川:昭和20~40年頃までは、日野桑園の宿舎から高円寺まで通勤している職員も多かったです。

野﨑:私も日野の宿舎から高円寺に通っていました。高円寺にも宿舎はあったのですが、数が足りなくて。

大井:戦後、「蚕糸業復興5ケ年計画」により、大勢の若い人が採用されたんです。当時は食糧が少なく、高円寺の男子寮では朝食に大きな鍋で味噌汁が出されていましたが、若い人は具の豆腐が食べられなかった。年配者が早起きして全部食べちゃうから。そんな食糧難の頃には、日野桑園では独身寮の仲間が協力して、桑畑の畝(うね)と畝の間に小麦を育て、秋に収穫して製粉工場で粉にし、当時お米の代わりに配給されていたコッペパンと交換して飢えをしのいだことが懐かしく思い出されます。

山川:昭和20~30年代の日野桑園周辺は田んぼが多くて、民家が無く、街灯も少なくて寂しいところでした。道路が狭く、田んぼより低いので、田植えの頃にはいつも水が流れていた。外出して酒に酔ったときは、靴や洋服も泥んこで帰ったことも何度かありました。

野﨑:日野では、蚕室を宿舎にしていましたね。蚕室は天井が高いので、冬はかなり寒かったです。

山川:朝鮮戦争の時には、立川基地と朝鮮半島の間を大型輸送機が飛んでいたので、騒音のため寝れないこともありました。また、風呂は共同風呂で、曜日ごとに男女が入る順番と時間が決まっていました。浴槽に直接ニクロム線を入れて沸かしていたのですが、時々アースの接続が悪くて、ビリビリと電流を体に感じながら入浴したこともありましたよ。

大井:生活の場でも若い人も偉い人も一緒、職住一体の生活でした。働く場所は、机だけではありませんでした。

山川:今後、日野桑園第一蚕室が蚕糸試験場の思い出を伝える展示室に使われていくとうれしいですね。大井先生がお持ちのトントン秤なども展示したいですね。

大井秀夫先生

大井秀夫先生

野﨑稔先生

野﨑稔先生

山川一弘先生

山川一弘先生

繭と繭殻の目方を測る「トントン秤」。普通は1個の繭から約1,200mの糸が採れるのだが、大井先生たちは、皇紀2600年(1940年)にちなんで、繭糸の長さ2,600mに挑戦し、平均2,000mの糸を吐く系統の作出に成功したそうだ

繭と繭殻の目方を測る「トントン秤」。普通は1個の繭から約1,200mの糸が採れるのだが、大井先生たちは、皇紀2600年(1940年)にちなんで、繭糸の長さ2,600mに挑戦し、平均2,000mの糸を吐く系統の作出に成功したそうだ

プロフィール

【大井秀夫先生 プロフィール】
蚕糸試験場 生理部 遺伝研究室研究員(4月~10月は日野桑園、11月~翌年3月は本場勤務)
蚕糸試験場 育種部 蚕育種第一研究室研究員(1年を通して日野桑園勤務)
蚕糸試験場 九州支場 蚕品種改良研究室長  
蚕糸試験場 企画連絡室 連絡第1科長 
蚕糸試験場 新庄原蚕種試験所長  
蚕糸試験場 蚕育種部長        
大日本蚕糸会 蚕品種研究所副所長~所長 
大日本蚕糸会 蚕糸技術賞受賞 
瑞宝小綬章受章         
農学博士     

【野﨑稔先生 プロフィール】
蚕糸試験場 絹繊維部 絹糸物理研究室研究員
蚕糸試験場 企画連絡室 企画科
      筑波準備室員
蚕糸試験場 筑波分室員
蚕糸・昆虫農業技術研究所 設立準備委員
蚕糸・昆虫農業技術研究所 企画連絡室 企画科
蚕糸試験場 企画連絡室 業務科長
農業生物資源研究所 企画調整部 併任
農業生物資源研究所 業務第1科長
大日本蚕糸会 蚕糸功労賞受賞

【山川一弘先生 プロフィール】
蚕糸試験場 栽桑部 桑栽培研究室研究員
タイ国養蚕研究訓練センター(JICA桑栽培専門家)
蚕糸試験場 栽桑部 主任研究官
蚕糸試験場 企画連絡室 業務科長
蚕糸・昆虫農業技術研究所 企画連絡室業務科長
熱帯農業研究センター研究第一部
JICAシニア海外ボランティア(ラオス国)
蚕糸の会・日野 蚕糸技術顧問
大日本蚕糸会 蚕糸功労賞受賞
ラオス国 労働記章受賞

DATA

  • 出典・参考文献:

    協力:日野市教育委員会教育部生涯学習課文化財係

  • 取材:西永福丸
  • 撮影:西永福丸
  • 掲載日:2018年01月09日