中西悟堂は、1895(明治28)年11月16日石川県金沢市に生まれた。幼名を富嗣(とみつぐ)という。
海軍の軍人であった父親の富男とは幼くして死別、母親のタイとは生き別れてしまった。富嗣は東京にいる祖父母に引き取られ、父親の兄の中西元治郎(後の悟玄)の養子となった。体が虚弱で12、3歳まで体がもつかどうか心配されていたため、養父の「このような虚弱な子供は鍛えなおしたほうがよい」という考えのもと秩父の寺に預けられる。富嗣10歳の頃であった。寺での修行は、いわゆる荒行で、最初は林の中で108日間の坐行、次は滝に入って21日間の水行、その次が21日間の断食であった。富嗣がずっと座っている時に、いろいろな鳥が膝や肩にとまって来たが、その当時はまだ鳥の名前などはわからなかった。だが、この修行のおかげで虚弱だった体はいっぺんに丈夫になった。
悟堂への改名
1907(明治40)年、養父の元治郎が東京府下北多摩郡神代村深大寺の末寺の祇園寺に住むようになり、その後住職となった。その時に富嗣も一緒に連れて行き、深大寺に預けた。富嗣は深大寺で修行し、15歳の時に得度して法名を『悟堂』とした。当時は僧侶の法名がすぐに本名となり、戸籍上の名前も悟堂となった。
悟堂は仏教系の学校を卒業後、各地の寺の住職となった。1926(大正15)年からは、東京府下千歳村烏山(現在の世田谷区北烏山)に住み始めた。烏山では、火食をせず、水で練ったそば粉、松の芽、大根の生かじりなどの自給自足の生活である。他人からの干渉のない自主孤独な生活で、読書以外は野鳥や昆虫の観察をしていた。
1929(昭和4)年11月、烏山での生活を切り上げて、当時よく通っていた井荻町にある天徳温泉(現在の西荻北・天徳湯)近くの自然豊かな善福寺池のほとりに引越した。当時の野鳥を取り巻く環境は、「飼う」「捕まえる」「食する」であった。悟堂は「野鳥は一個人の所有物ではなく、国民の感情生活に潤いを与えるもの」として、自然の中での生態を考えるようになった。
善福寺池の近くには東京女子大学があり、英文学教授の竹友藻風がいた。旧知の悟堂がスズメやカラスなどの野鳥の放し飼いをしているのに興味を持ち、中西宅にたびたび遊びに来るようになる。そのうちに、竹友が鳥の雑誌を出版しないかと話を持ちかけてきた。悟堂も、野鳥の世界をもっと一般に広めるためにもと、出版の必要性を考えるようになる。そこで、鳥学会の大御所、内田清之助に鳥の雑誌のことを相談したところ、大変乗り気で賛同を得た。
1934(昭和9)年3月11日に日比谷公園近くの丸の内「陶々亭」にて、日本野鳥の会創設の座談会が行われた。中西悟堂のほか、内田清之助、山階芳麿、柳田国男、山口蓬春、竹友藻風などの鳥学者や文化人12名が参加。座談会の中で、悟堂と内田は、日本野鳥の会の趣旨を「日本全国に鳥を愛する思想を広く普及することにある」と述べている。
同年5月に、日本野鳥の会の会報誌『野鳥』が創刊。そして6月2、3日に、静岡県の富士山麓の須走にて、日本で最初の探鳥会が開催された。ちなみに「探鳥」や「探鳥会」は、中西悟堂の造語である。探鳥会の参加メンバーには、柳田国男、杉村楚人冠、戸川秋骨、窪田空穂、北原白秋、中村星湖、金田一京助、荒木十畝、奥村博史など、当時の文壇画壇のそうそうたる人物が揃っていた。このうち、戸川、中村、金田一は杉並区民である。
また同年7月17日に、悟堂は自宅から程近い杉並区立桃井第四小学校にて、午前11時より午後2時30分まで職員と児童を対象に、野鳥愛護の思想を普及するための講演を行った。これが子供を対象にした環境教育の始まりと言えるものであった。
1936(昭和11)年からは、全国各地に働きかけて支部設置運動を開始。京都、大阪、中京、神戸、札幌と大都市を中心に支部が設立された。東京に支部が設立されたのは1947(昭和22)年9月である(現在の名称は「日本野鳥の会東京」)。初代支部長は悟堂。日本野鳥の会は戦時中も活動していたが、戦況が悪化するに連れて出版事情も悪くなり、また会員が戦地に赴くようになったために、1944(昭和19)年9月に活動を休止した。悟堂は井荻の家(井荻3-41)から、西多摩郡福生町へ引越し、その翌年には山形県に疎開した。
終戦を山形県で迎えた悟堂は、1945(昭和20)年12月に帰郷。今度は西多摩郡東秋留村に住み着いた。日本野鳥の会の活動も1947(昭和22)年4月に再開される。
1952(昭和27)年に、禁止されていたカスミ網による猟(野鳥を一網打尽に捕獲する猟)の復活運動が起きる。これに対し、悟堂を先頭に日本野鳥の会を挙げて大反対し、ついに1957(昭和32)年、カスミ網の使用が法律で禁止された。また1954(昭和29)年からは、空気銃の氾濫に対し、「空気銃の狩猟登録制度を免許制度に」と制度変更を推進して青少年の使用を抑止した。やがて1963(昭和38)年3月に、新たに『鳥獣保護及び狩猟ニ関スル法律』が施行される。この法律は1895(明治28)年の『狩猟法』を改正した画期的なもので、悟堂も鳥獣審議会委員として活動した。
悟堂の野鳥についての著作は、小中高学校の国語の教科書に数多く採用され、多くの学生が学んだ。また、子供向けの著作も数多く発行し、『少年博物館 全12巻』は当時の子供たちを夢中にさせた。都道府県の鳥の認定にも悟堂が関わり、東京都の鳥は都民の投票の結果“ユリカモメ”に決定。ちなみに日本野鳥の会東京の会報誌の名前は「ユリカモメ」である。
1976(昭和51)年に、悟堂は土地を買い上げて、野鳥と人間との触れ合いの場となる鳥の聖域(サンクチュアリ)の設置運動を展開するようになる。そして1981(昭和56)年に北海道のウトナイ湖に、日本で最初のサンクチュアリが誕生した。初代レンジャー(※)には、杉並区民の安西英明が赴任した。その後も、日本野鳥の会は野鳥の生息地の保全を目的にした野鳥保護区を管理している。現在日本野鳥の会が管理している野鳥保護区は、北海道の絶滅が心配されているタンチョウやシマフクロウのための保護区を中心に、全国で3000ha以上になった。
※レンジャー:サンクチュアリに常駐して「自然環境の調査」「自然環境の管理」「来園者への自然解説」「ボランティア活動の促進」などの業務を行う自然保護のプロフェッショナル。(公財)日本野鳥の会ホームページより
悟堂の思いを継ぐ日本野鳥の会
北海道から九州・沖縄までの各地に、日本野鳥の会の連携団体(支部)が90ある。その連携団体では、各地域を舞台に野鳥に親しむ探鳥会を開催している。2014(平成26)年11月30日には、日本野鳥の会創立80周年記念探鳥会として、日本野鳥の会東京主催の「善福寺公園探鳥会」を開催。かつて悟堂が近くに住んでいた善福寺池を中心とした都立公園で、60名の参加者が27種類の鳥の観察を行った。
悟堂は1984(昭和59)年12月11日で89歳の生涯を遂げたが、悟堂の野鳥保護への熱い思いは、全国で展開する日本野鳥の会の活動に今も引き継がれている。
中西悟堂プロフィール
1895(明治28)年、石川県出身。1916(大正5)年、中西赤吉の筆名で初の歌集『唱名』を刊行。1922(大正11)年に初の詩集『東京市』、1929(昭和4)年に『新鉄道唱歌・東海道線』を作詞。同年に烏山から井荻町に移住する。1934(昭和9)年、日本野鳥の会創設、初代会長。1961(昭和36)年紫綬褒章受章。1977(昭和52)年、文化功労章顕彰。1981(昭和56)年、日本野鳥の会名誉会長。1984(昭和59)年没。
主な著作
『蟲・鳥と生活する』昭和7年(アルス) ※中西悟堂による初の野鳥に関する本
『野鳥と共に』昭和10年(巣林書房)昭和13年再版(日本野鳥の会) ※10万部を超える当時の大ベストセラー
『野鳥記』昭和17年(新潮社) ※巻末に善福寺風致地区の鳥の一覧表
『少年博物館全12巻』昭和27年~31年(ポプラ社)/第1巻『世界の珍しい鳥と獣』
『定本野鳥記1~8巻・別巻』昭和37年~42年(春秋社) ※読売文学賞受賞
『愛鳥自伝上・下』平成5年(平凡社)
(公財)日本野鳥の会ホームページ http://www.wbsj.org/
日本野鳥の会東京ブログ http://tokyo-birders.way-nifty.com/blog/
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自然/杉並の野鳥(サイト内リンク)
協力者:(公財)日本野鳥の会、日本野鳥の会東京、杉並区立郷土博物館分館、川合千晶さん