2013(平成25)年5月、阿佐谷パールセンターの南端、青梅街道との交差点に小さな楽器店「LAST GUITAR」がオープンした(※)。
「最後のギターを売る店なんですか?」
客から、冗談交じりにそう尋ねられると苦笑いするのは、代表の小山晃弘さん。自社ロゴが入ったキャップとパーカーでギターを抱える姿はアーチストの風情が漂い、ITベンチャー系とも違う新しい起業家のスタイルが見える。「若い頃は、ミュージシャンになれればいいなあと思っていたけど、そんなに甘いものでもないという現実も知っていて、結局何をしたいのか分からずフラフラしていました。」
大学を卒業して2年間、アルバイトで警備員など音楽と無縁の職を転々とする中で、身の置き所を探るうちに一つの結論にたどり着く。「やっぱり自分は常に音楽のそばにいたい!給料が安くても、自分の興味のあるものを仕事にしないと、時間の無駄遣いだ!」小山さんは、お茶の水の大手楽器店に正社員として入社。バブルは崩壊していたがバンドブームはまだ盛況で、開店中は客が途切れることが無く、朝から晩まで夢中で働いた。「労働することによる精神の浄化作用がありました。迷いが消え、音楽を生み出す楽器そのものへの関心がどんどん高まっていきました。」
※その後、阿佐谷南1丁目に移転
店員をしながら楽器の歴史や材質などを猛勉強していくうちに、音楽をただ聴いたり演じていただけでは分からなかったことが次々と明らかになる。「1960年代〜80年代初めに作られたギターは、今とはまったく材質が違うんです。1本の木から楽器に使える良質な部分だけを贅沢に使ったり、今では伐採が禁じられている稀少な木を使っているものもあります。」70年代までは高嶺の花だった米国のブランド楽器が80年代に入り日本の工場で委託製造されはじめた。小山さんによれば、当時は試作品やパーツにも手間がかけられ、その間に工場が貪欲に米国の技術を吸収していったと言う。
小山さんは元々演奏していただけに、材質の違いから生まれる微妙な音質の変化を聞きわけることができ、楽器の目利き力がすぐに上達。扱う商品は面白いほど売れるようになった。海外買い付けを任され、アコースティックギター部門リーダーからついに本店店長まで昇進した。
いい楽器は、何も海外有名ブランドの中古だけとは限らない。買い付けで各地を回るうちに、国の内外を問わず、小さな工房で精魂込めて手作りする楽器職人たちの技に魅了された。
「より多くの人たちに彼らの存在を知って欲しい。」
だが、有名ではない個人製作や小さいメーカーの楽器を販売することは難しい。しばらく使われていなかった古い楽器の中には、万全な修理や調整をすれば甦るものが数多くあることもわかった。大手なら収益率の面で敬遠する楽器も、手間さえかければ販売するチャンスがある。売りたいものと売っているものの違いに悩んだ小山さんは、次第に現状に満足できなくなっていく。
「今度こそ、自分がやりたいことをやる!」
紅白出場や武道館・東京ドーム公演も行う多くの有名プロミュージシャンにも販売実績を残してきた小山さんは、独立を決心した。
JR中央線の通勤の便と沿線の音楽カルチャーが好きだったため、ここを中心にリサーチし阿佐谷に焦点を絞る。決め手は、地元に愛着を持っている人が多いことだった。「楽器の調整や弦1本だけの購入でも、演奏する人に寄り添える店にしたい。そしてこの店から音楽文化が地域に広がるように。」小山さんの想いは、今、店で開催している音楽教室やプロデューサーも務めた阿佐谷ジャズストリートを通じて着実に地元に根付いてきている。
「学生時代は、売れないミュージシャンにありがちな、“音楽は楽器じゃない。才能が大事”という考え方で、むしろ物質社会に対してネガティブでした。ですが、いい楽器を持つと、実感として上達が5倍は速くなります。楽器が音楽の面白さを教えてくれるんです。」
調べてみると「LAST」には「最後」だけでなく「続く」という意味もあった。多くの演奏者の手を経て伝わってきた中古楽器や、職人が情熱を注いで創り上げた楽器を、小山さんは次世代に渡すバトンにするべく今日も音楽に寄り添っている。
取材を終えて
一時期、音楽が生活の中心になっていた自分にとって、店内には垂涎のギターがこれでもかと並んでいて頭がくらくらするほどでした。小山さんは世代的にも自分に近く、聴いてきた音楽も重なるところがありました。ただ自分と決定的に違うのは、音楽と楽器への情熱で、それが独立して一国一城の主になるかなれなかったのかの分岐点だったなと痛感しました。
小山晃弘 プロフィール
1972年生まれ。幼少の頃、荻窪で育つ。1998年(株)黒澤楽器店入社後、本店店長、アコースティックギター部門リーダー、海外買付等を経験。2013年2月同社を退職後、LAST GUITAR設立。2014年5月株式会社ラストギター設立。