instagram

森田信幸さん

黄色い花を咲かせてからが、また目をはなせない

井草にある森田さんの畑では、3月の収穫期にむけて、昨年9月に播種(はしゅ)した温室のトマトが、順調に成長している。土づくりから、種を播き、苗を育て、移植、定植、その後も、辛抱強く、トマトの成長を見守りつづける。 
「葉の裏を見たり、茎についた虫をチェックしたり、発見が数日遅れただけで、急に被害が拡がってしまって、手遅れになるんです」倍率25倍のルーペは森田さんの必需品。トマト栽培に関する病気は約10種類、害虫は約5~6種類。今までに報告例がない病気や害虫には、特に気を配る。

「症例のほとんどない病気がうちででちゃったことがあって。東京都の農業指導員が真っ青な顔をしてとんできたね。もうトマトは、それ以上、育ってくれないし、伝染しないようにビニールハウスも密封状態にして、トマトも完全に中で蒸して枯らしました。…もちろん大損害でした。コナジラミといって1ミリくらいの白いハエなんだけど、今では気配だけでわかる。後ろを飛んでてもわかるようになりました」収穫期をずらして、同時に育てるトマトは全部で1,300株あまり。ビニールハウスで育ちつづけるトマトの間を巡っては、手入れと観察の毎日だ。
「以前やっていた自動車やバイクの修理の仕事なら、結果がすぐ出る。だめならやりなおす。農業はそうはいかない。結果がでるのに時間がかかるし、だめだったらまた来年でしょ。歯がゆかったですねぇ」今では、真っ赤な甘いトマトを安定して生産できるようになったが、農業に従事した当初は、失敗の連続だった。

パソコンに向かう森田信幸さん

パソコンに向かう森田信幸さん

温室で育つトマトの苗

温室で育つトマトの苗

自分で食べてみて、結果はすぐにわかった

「畑の世話をしなければならないので、そのまま退職しました」森田さんは井草の農家の長女と出会い、婿養子にはいった。なるようになるだろうと思っていた。会社勤めだったが、いずれは一緒に畑仕事をするはずだった義父の喜平さんが急逝され、森田さんの悪戦苦闘がはじまった。

「忙しいも忙しくないも、考えているいとまもなかったです」「狭い耕地面積、近隣が住宅街なことを考えると、同じものも長期間販売できるもの、金額を差別化できるもの、そうなると当然、トマト、ナス、それと直販しかないと思いました。有機農法は、自分の考え方として当初からありました」
しかし、思いどおりにはいかなかった。杉並区の主要産業はもともとは農業。しかし、区内の農家は昭和30年代を境に激減。それでも、都市近郊農業として畑作、おもに野菜の生産でなりたってきたが、宅地化、地価の高騰による固定資産税等の経費の負担増、小規模農法のため、全国的な農作物の大量生産システム、市場の大量流通システムに対応することはできず、経営が悪化。さらに減少の一途をたどり、どの農家も耕作作物の変換、不動産経営など兼業での農業経営など、将来への道を模索している時期だった。従来のやりかたに比べ、経費や労働力を計算に入れたうえでの単位面積あたりの収益率がより厳密にもとめられていた。

「トマトの苗といっても数百種類はあって、どの苗にするか決めるまえに、苗作りを身につけたくて」たまたま門をたたいた神奈川県立・かながわ農業アカデミーの元校長が、森田さんの熱心さに、自ら考案したトマトの栽培方法(隔離ベットによる栽培法。根域を狭めることでトマトの糖度をます栽培法)を伝授してくれた。苗の違いではなく、栽培法によってトマトの甘さを引き出すやりかただった。恩師はその後、15年以上にわたり、毎週、森田さんの畑を訪れ指導にあたってくれた。
「トマト栽培は、準備するのに2、3年。それからまた2、3年かかったね。金額を高くつけるにはふつうの出来ではだめなんだけど、ふつうに作ることもできなかったです」と語る。
「肥料をどうするかは野菜によって違う。うちでも、スィートコーンやこまつなは、もともと化学肥料は使っていなかった。化学肥料に頼らないといっても、化学肥料のかわりになることを組み合わせて施してやらないと、土も作物もだめになってしまう。その方法を会得するのにも時間がかかりました」

畑を見回る森田さん

畑を見回る森田さん

試食をたくさん用意して売りに

トマトを収穫し、自分で何度も食べ、家族や親族、知人にも食べてもらい、自信を深めてから販売に乗り出した。「お客さん商売は得意っていうわけではないけど、まあまあふつうにできるようになったかな。農家なら珍しいというだけで、商店だったらどこでもやってることですから」

フルーツトマトの三幸園のデビューは、ちょうどインターネットの黎明期にあたった。もともとPC好き。取得していた情報処理の技術も役にたった。「専門ソフトを使って、ホームページを作る命令を打ち込み、2週間くらいでアップしました」
まだ全国でも、農家のホームページが数件しかない時代。ましてやインターネット販売は類例を見なかった。「インターネット販売は、将来の夢として告知のつもりで載せた。ところが、ほんとうに注文がきちゃって…」あわてて運送用の箱をつくった。箱づくりも知人たちが協力して、商品価値を高めるものに仕上がった。「大きいから売れない。小さいから売れないってことじゃないですね」大きいトマトは大きいトマトで揃え、小さいトマトは小さいトマトで揃える。箱詰めの仕方、ラッピングの仕方もどうしたら評判がいいか、試行錯誤して決めていった。

直販は、井草にある森田さんの畑の直売所、杉並区、中野区内のJA関係の直売所を中心に、インターネット販売を加え、売り上げのバランスをとっている。収穫が多いときは、買ってくれたことのあるお客さんにメールで案内を出したり、大手検索サイトなどに広告をうったりして調整する。4、5ページではじめたホームページも現在は五代目。改良に改良を加え、ページあたりのリンク数は約50。森田さんのトマト作りのブログも加わっている。1日、必ず2回の注文のチェックも欠かせない日課。そのほか、事業者の参加できるイベント、フリーマーケットにも持っていく。「トマトをお皿にならべて、楊枝をつけて置いておくわけ。試食してくれたお客さんは、けっこう買ってくれるよ。…そういう時? あっ、ひとり、ひとり。全部ひとりでこなしているんですよ」
環境への影響を配慮する循環型社会を指向する現代、栽培方法や、味・質にこだわる全国の、ことに都市部、地元杉並区の消費者に、森田さんの作るトマトは好評だ。

販売所の野菜陳列棚

販売所の野菜陳列棚

小学校3年生にはようやく、 なにを話していいのかわかってきた

地域社会のつながりを支えることは、森田さんにとって、必要不可欠な仕事だ。本家、分家といった農家の親戚の関係だけでなく、井草地域の旧来からのしきたり、付き合いにも気を配る。「生まれ育った狭山(埼玉県)とそんなにかわらないから違和感はなかったけど」楽しいことばかりではない。「誰かがだめになってしまうんじゃなくて、みんなで生活を後世に伝えていく仕組みのようなものだから」生存し続けるための共生について冷静に考えている。

何事もあえて断らない性分。役目はどんどん増えていく。たまたま知人の先生が執筆したため、頼まれて「わたしたちの杉並区」(杉並区内の公立小学校3・4年生の教科書)に農業従事者として紹介された。森田さんの畑は、下井草の荻窪園芸市場とともに杉並区内の小学校3年生たちの社会科見学のコースとなった。大勢の子どもたちに畑で説明をする回数も年を重ね増えている。「食卓に並ぶ野菜と、畑の野菜とが、結びつかない子が多いですね。もっとも、農家に育ったうちの子どもたちですら三者三様だから。
長男は畑のなかで遊んで育ち、今は仕事もやってるからもちろんわかるけど、娘二人は、味ですぐ違いがわかる子と、全然わからない子といるしね」話をすることが得意なわけではなく、とまどうこともあるが、次の機会に子どもたちに何を話すのか、トマト作りとともに森田さんのなかで熟成されつつある。

杉並区内の農業従事者たちは、お互い、協力することもあれば、それぞれが自分の考え方で農業に取り組む自営者でもある。農業について話を聞かれたり、講演を依頼されることもあるが、必ず「わたしの意見です」と前置きをすることにしている。「みんなが同じ考えだと思われたら、みんなに悪いから」
「現在の自分の姿は、若い頃には、想像だにしなかったですね」という。その時々で、最善をつくしてきた結果だろう。
「杉並区の農業については、語りたくないですか」と再度たずねると、「いや、語りたい。語りたいことがある」と、はぎれのいい返事がかえってきた。


森田信幸 プロフィール
1953年(昭和28年)埼玉県狭山市生まれ。
1991年に勤めていた会社を退職、農業に従事。
1993年、トマトの生産直売を開始。1996年にインターネットによる販売にも着手。その後、2007年にトマト栽培でエコファーマーの認定を受け、2013年には東京都が始めた東京都エコ農産物認証制度の認証を受ける。
ファームショップ「あぐりーん」(JA東京中央直売所)運営委員長、井草1・2丁目自治会役員、荻窪消防団員。毎年秋、杉並区内の公立小学校の社会科見学も受け入れている。子どもたちにとっては、農業の先生でもある。

【関連ページ】「食」コーナー その他/三幸園

小学生からの手紙

小学生からの手紙

DATA

  • 最寄駅: 下井草(西武新宿線) 
  • 取材:井上 直
  • 撮影:チューニング・フォー・ザ・フューチャー
  • 掲載日:2010年04月15日
  • 情報更新日:2024年03月22日