「当社の発泡スチロールリサイクル処理事業は、1978(昭和53)年に東京築地魚市場から始まり、今では毎月7,000トンの再生素材を流通させています。日本全国の数百におよぶ魚市場、百貨店やスーパーマーケット等での発泡スチロールリサイクル用機器販売の国内シェアはおよそ80%を占め、アジアを中心に再生素材を輸出しています。」
発泡スチロールを再生素材に換える機器の販売代行、さらに処理された素材を有価売買することで資源のリサイクルを促進している。事業そのものがいわば社会貢献であり、課題解決型企業のパイオニアなのではないだろうか。
「機器の販売だけでは資源リサイクルは継続しないのです、素材の再利用目的に販売することで、継続性の向上とビジネスの拡張を両立できる事業だと自負しています」と犬飼健太郎氏は語る。
非常によく考えられたビジネスモデルだが、事業を開始した頃から受け入れられていたのだろうか。
「今でこそ再生素材に対して消費者の理解も深まってきましたが、弊社会長が『人のため世のためになれば』と、この事業を始めた昭和50年代、消費者の多くは再生素材で製造された製品の購入や利用には関心も低く積極的ではなかったようです。」
しかし需要はあった。
「廃棄物の処理に苦慮する事業者は多かったようです。日々発生する産業廃棄物は非常に多く、それらを環境に悪影響を及ぼさず、安価に廃棄できる方法はなかったのではないでしょうか。機械メーカーに掛け合って製造したスチロールを溶かしペレット(粒状)や圧縮ブロックに変える機器を携え熱心に営業した末、ようやく3年後に築地の市場で導入され良い成果をあげたのです。この成果が広く知れ渡ると、全国各地の市場から引き合いが来始めました。納入先の規模に合わせ、機械も小型、大型と取り揃えられラインナップが広がっていったのです。しかし様々な法的問題から再生素材は国内で流通させることは難しく厳しい局面を迎えました。」
健太郎氏の父でもある現会長の犬飼重平氏は、前職が商社勤務だったこともあり、ここで決断をする。
「これは思い切って海外に出よう、と当時イギリス領で貿易の中継地だった香港を中心に三国貿易で、リサイクルされた再生素材の輸出を開始したのです。」
輸出された再生素材は現地で家電製品の小さな部品等に姿を変え、日本へ逆輸入されることもあるそうだ。商社時代の経験からグローバルな視点が切迫した問題を解決に導いたと同時に、後々会社を飛躍させる礎ともなった。
また健太郎氏はもともと、他社で勤務するシステムエンジニアであったが、父の再三にわたる入社要請に応じ32才の時(会社設立26年後)、パナ・ケミカルに入社した。すでに発砲スチロールリサイクル量のピークが過ぎていると認識すると、様々なプラスチックのリサイクル市場を新たに開拓し、数千種におよぶ再生素材を備えるまでに成長した。そして前職のノウハウを生かし全国の倉庫と本社を結ぶ在庫管理システムなども自ら開発している。
純粋に環境を改善したい、という想いをビジネスとして成立させた起業家、犬飼重平氏の人となりを二代目の健太郎氏に伺ってみると
「とにかく松下幸之助を敬愛しており、人材をとても大事にしています。ですので、『共存共栄』を目指しているのです。自分たちの企業だけでなく、お客様、そして環境にも配慮し末永く公正な企業活動ができるように考えているのです。再生素材の相場は不安定な時期があり当社の経営にも影響を及ぼしかねないこともありましたが、長年に渡り築いてきた海外納入先との信頼関係もあって苦難の時期も協力し合って来ました。香港の商習慣では家族ごとの付き合いが一般的で、『人づきあい』を大切にするのです。私も子供の頃に、父の香港出張によく連れて行かれました。なんの仕事をしているか全く分かっていませんでしたが、今ではその頃にあった客先の子供たち(二代目)と商売をしています。不思議な縁です。」
杉並区に本社をおいた理由は定かではないとのことだが、発展を遂げた今でも都心に移転せずに、居心地のいい上高井戸に本社を置くには理由がある。
「移転すると、元々通勤を考えて入社してくれた有能な人材に迷惑をかけることもあります。皆にずっと当社で働いて欲しいのです。また都会のようで都会でない、この地域が皆気に入っています。海外のクライアントが来日して、事務所にお越しになると、こじんまりしているので、びっくりされるんですよ。」
社員は大きな家族の一員、企業の要は「人」だ と考える重平氏の哲学は、健太郎氏や社員にも浸透しているのだろう。一人一人がその役割を全うすることで、わずか17名の社員で年商60億円(第39期・平成26年2月)という大きな数字をあげている。