阿佐ケ谷駅東口より徒歩10分、住宅街にある神社。由緒書によると鎌倉時代末期、旧馬橋村の鎮守として創建された。1831年、拝殿改築に際し、氏子53人の寄付により京都に使者を向け、白川神伯家御役所(神社を司る役所)に上申。翌年、「正一位 足穂稲荷大明神」の神号を賜り、勧請する(※1)。1965(昭和40)年、住居表示の改正により「馬橋」の地名がなくなることを惜しみ、後世に伝えようと神社名を「馬橋稲荷神社(まばしいなりじんじゃ)」に改めた。
「"稲荷"には"い・なり"、命をなすという意味があります。生きるために一生懸命、田んぼを耕していた村人たちが五穀豊穣を願い、当社が祀(まつ)られました。」と禰宜(※2)の本橋宣彦さん。
稲穂を模した社紋は、かつての田んぼが広がる村の風景を思わせる。当時、村には桃園川が流れ、神社は河川に迫り出した台地の上に鎮座し、農耕の神として祀られていた。田んぼを潤し、人々の命を繋いできた桃園川。しかし、関東大震災以降、急速な宅地化で農地が失われ、川は生活排水で汚れ、遂には度重なる氾濫で暗渠(あんきょ)となってしまう。2011(平成23)年、そんな村の命である桃園川に思いを馳せ、参道にせせらぎが作られた。
随神門(※3)は、1975(昭和50)年に鎮座700年を記念して建立。天井には都内最大の鈴(運命の鈴)が備えられている。また、二の鳥居は昇龍・降龍が施された双龍鳥居。品川神社、宿鳳山高円寺の境内稲荷社と合わせ「東京三鳥居」と言われている。
「手を合わせることで、聞こえない、見えないものの中にあるものを感じてほしい。」と本橋さんは言う。命を繋いできた多くの人々を思い、参拝に出かけたい神社である。
※1 勧請(かんじょう):分霊を他の神社に移して祀ること
※2 禰宜(ねぎ):神主の下、祝(はふり)の上に位する神職
※3 随神門(ずいじんもん):神域に邪悪なものが侵入するのを防ぐため神をまつった門
『広辞苑』(岩波書店)