阿佐谷の馬橋稲荷神社内にある斎霊殿は、太平洋戦争に当時の馬橋村から出征し、帰らぬ人となった兵士340人の霊を祀(まつ)っている。
「神社は昔から地域住民の祈願の施設として存在します。その街の幸せや、五穀豊穣、商売繁盛など、生活に密着した願いを祈願する場所です。戦争が始まると、人々の願いも様変わりしました。武運長久(ぶうんちょうきゅう)や戦勝祈願など、出征される方々が神前に集い、祈願をされて行きました。」と禰宜(※)の本橋さんは話す。
斎霊殿が建立されたのは、1950(昭和25)年。氏子からの「戦地で亡くなった人の霊を慰めてはどうか」という提案で創建された。建物は、大正時代に神輿蔵として建てられたものを利用している。
「戦時下は、出征する本人も戦地に送りだす家族も、当然ながら戦勝を祈願しました。しかし残される家族は、表にこそ出しませんでしたが、心の奥底で無事に戦地から戻ってきてほしいと願っていたはずです。」と本橋さん。
※禰宜(ねぎ):神主の下、祝(はふり)の上に位する神職
忠魂碑は、戦没者の慰霊を目的に建立された石碑である。馬橋稲荷神社にある忠魂碑は、1904-1905(明治37-38)年の日露戦争に出征し、戦死した市村柳太郎さんの霊を慰めるために建てられた。建立は「1908(明治41)年」と碑に書かれている。「忠魂碑」という文字は、軍人であり、後に教育者となった乃木希典(のぎまれすけ)大将の書を刻んだものだ。
区内には、馬橋稲荷神社の忠魂碑以外にも乃木大将の書を元にした慰霊碑がいくつかある。本橋さんは、「乃木将軍は、日露戦争で司令官として旅順攻略(※)を指揮した際、厳しい戦いを重ね、多くの犠牲者を出しました。また、2人の息子も日露戦争で亡くしています。日露戦争で亡くなった兵士を少しでも慰霊したいという気持ちがあって、各所に碑を建立したのかもしれませんね。」と話す。
緑深い鎮守の森に囲まれた神社は、静かで日常の騒がしさとはかけ離れた雰囲気。過去の歴史の犠牲となった人々の霊も、慰められることだろう。
※旅順攻略(りょじゅんこうりゃく):日露戦争における戦闘の一つ