フラメンコといえば情熱的な踊りと華麗な衣装が思い浮かぶ。戦前もそれらしき踊りはあったようだが、日本で本格的にフラメンコが踊られるようになったのは今から50~60年前。現在ではスペインに次いでフラメンコ人口が多い国になっている。踊り・ギター・歌(※1)のプロと生徒、愛好家までを合わせると推定約3万人。教室は都内に100軒以上ある。
フラメンコダンサーとして活躍する鈴木眞澄さんは、日本フラメンコ界の草分けである小松原庸子(こまつばらようこ)スペイン舞踊団の5期生だった。現在は東高円寺駅前に「フラメンコスタジオ・マジョール」を開き、自ら教師も務めている。1983(昭和58)年創立の伝統ある教室だ。
鈴木さんは小学生の6年間バレエ教室に通ったほど踊りが大好きな少女だった。ところが12歳ですでに身長が160センチあり、バレリーナになる夢はあきらめた。バレエの先生が時たま見せてくれたフラメンコ風の踊りにも惹(ひ)かれていた鈴木さんは、自分の進む道はこれだと思い定める。中学の部活は新体操でがまん。晴れて高校進学の時、親から埼玉の県立高校合格と引き換えに小松原庸子舞踊団に通う許可を得た。そして入団した1973(昭和48)年7月、日比谷公会堂の公演でダンサーの一員として初舞台を飾る。
※1 この3つがフラメンコの基本ユニット
※2 アレグリアス:スペイン語で「喜び」。明るく快活な曲想のフラメンコの代表的なナンバー
小松原先生には舞踊団での活躍を期待されていたが、鈴木さんはスペイン留学という大きな夢を抱いていた。家族全員に反対されたが、「大学に行く代わり、そのお金で留学させて!」と説得しきった。そして言葉もわからないままスペインへ渡る。下宿ではたった1人の日本人。けれども持ち前の強い意志力で頑張り通し、さまざまな国からの留学生の友達も得た。
充実した1年間の留学生活を終えて帰国し、翌年の1978(昭和53)年、東京新聞主催・第1回フラメンココンクールで入賞した。上々のデビューだったが、鈴木さんは「早くから脚光を浴び自分の踊りを追求してきたため、私は下積みを知らなかったんです。」と語る。結婚して2児を出産。離婚して5年後に生活の基盤とするため自分の教室を持つ。「そこでハタと気がつきました。どういうふうに教えたらいいのか分からない。何も知らない人に言葉で説明する難しさにがくぜんとしました。」
鈴木さんはフラメンコの基本を学び直すため、マルハ石川さんという伝説の名教師の元に3年間通う。「私は舞台に映える花を開かせることばかりに気を取られて、根っこを知らず幹も知らなかった。咲いたら終わりの切り花だったんです。マルハ先生には、根っこと幹の育て方、そしてたくさんの生徒さんという花を咲かせることの大切さを学びました。」
※3 ソレア:フラメンコの母とも呼ばれる伝統的な曲種。他の多くの曲の元になっている
「フラメンコは精神性を強く出す舞踊です。もともと放浪の民ジプシーが差別や迫害の中で、それに負けない強い心を表現した。だから喜怒哀楽がはっきりしています。踊り手の人生がそのまま表現に現れてくるんですね。」腕の1本にも豊かな表現力を持つというフラメンコの魅力、それが2010(平成22)年頃、鈴木さんと”能”との出逢いに繋がる。「能の演者が舞台に上がるときの歩き方が、フラメンコの踊り手の歩き方にそっくりだったんです。その時、フラメンコは能に似ているって直感しました。能の地を這(は)うような動きに対して、フラメンコの大地に根ざしたような動き。これは他の軽やかな西洋の踊りには見られないものです。例えば、サパテアード(靴で床を打つこと)では大地と応答することで魂を浄化しようとします。無駄を極限まで削ぎ落とした能の所作にも共通するものを感じますね。」能とフラメンコが響き合うとは意外だった。「日本人の好きな哀愁を帯びた古賀メロディー(※4)にも、フラメンコの歌に通じるものがあります。能とフラメンコに生きている魂には共通するものがあると思いますよ。」日本人とスペイン人のメンタリティは深いところでつながっているのかもしれない。
※4 昭和を代表する歌謡曲の作曲家兼ギタリスト古賀政男(1904-1978)。生涯に作った5,000曲は“古賀メロディー”と呼ばれ、親しまれている
高円寺は修行時代から鈴木さんがなじんだ街。スタジオやタブラオ(ライブが観られる居酒屋)も多くフラメンコが盛んな地だ。鈴木さんが主宰する「フラメンコスタジオ・マジョール」は東高円寺の本教室のほか、船橋、横浜、福島、熊本に教室がある。また、NHK文化センター(町田・さいたま)でもカルチャークラスを担当している。
本教室では初級、中級、マジョール(60歳以上)、親子、楽しむフラメンコの5クラスを開催。「フラメンコを教えていてうれしいのは、生徒さんが肉体的にも精神的にも強くなることですね。枝葉にとらわれず本質を求めるフラメンコの精神を学んで強くなれるんです。」中には残業の後、他の誘いを振りきって稽古に来る生徒さんもいるが、身体のリフレッシュに加え、人生で出合う困難に負けない心が養えるという。さらにフラメンコにはこんなメリットも。「基本である真っ直ぐ立つ姿勢から、歩き方、腕の使い方の順に教えるので、立ち居振る舞いが美しくなります。踊りの中で体力・筋力が自然につき、骨粗しょう症の予防にもなります。膝や腰の状態や姿勢が改善され、60代で身長が2センチ伸びた方もいらっしゃいますよ。手指を使うカスタネットは“脳トレ”になります。リズム感がないとあきらめている方も、お稽古で身に付くので心配いりません。」男女を問わず働き盛りの人から高齢者まで、心身を鍛え、健康増進にもなる。それがフラメンコだ。
鈴木さんは東高円寺のスタジオを拠点にして、フラメンコを通じた社会活動にも取り組んでいる。その1つが、10数年前から続けている障がい者施設でのボランティア公演だ。「素直に反応し心から喜んでくれるので、もらうものがとても大きいです。」という鈴木さんの言葉に優しさがにじむ。また、9年前からは上越市の依頼で市内小学校での公演をスタート。毎年2校ずつ訪れて全校児童の前で踊る。「外国文化の踊り、歌、ギターに接して児童たちの興味が広がり、それが生きていくうえでの選択肢が広がることにつながればいいですね。」
東日本大震災以来、3月11、12日には東北各地を訪れる。被災地での会場探しは大変だが、不安の中で暮らしている人たちにフラメンコを無料公演で楽しんでもらい、少しでも元気になってもらえたらと願う。2日目は仙台で地元アーティストと一緒のチャリティー公演。収益の一部が前日の被災地での公演の経費に充てられる。
鈴木さんを突き動かすもの、それはフラメンコダンサーとしての使命感だ。
取材を終えて
舞踊家は愛好者に楽しんでもらうのが一番だろうが、鈴木さんには「もっと日本人にフラメンコを知って欲しい」という強い思いがある。どんな田舎(田んぼの中の公民館!)へも、演歌や民謡の方がお好みの人たちの所へも喜んで出かけて行く。その熱意と行動力には圧倒された。
鈴木眞澄 プロフィール
フラメンコスタジオ・マジョール(東高円寺)、鈴木眞澄スペイン舞踊団主宰。日本フラメンコ協会理事。
1958年、東京生まれ。15歳より小松原庸子に師事、1976年渡西。1978年、東京新聞主催・第1回フラメンココンクール入賞。
毎年恒例の「ハイアット リージェンシー東京/フラメンコクリスマス」(1998年-)、「熊本フラメンコライブ&セミナー」(2001年~)、「八ヶ岳フラメンコライブ」(2007年-)をはじめ、学校公演やボランティア公演にも力を注ぐ。
著作に『フラメンコ入門』(パセオ発行)がある
『パセオフラメンコ11』特集”フラメンコ四代”(発行:株式会社パセオ)
『フラメンコ入門』(発行:株式会社パセオ)