ビリヤード山崎は、昭和初期創業の日本最古級といわれているビリヤード場である。西荻窪駅北口前のロータリーを左に進むとすぐに立て看板が見えてくる。
店内には3台のビリヤード台が並び、壁には常連客のマイキュー(玉を突く棒)がかかる。奥のブルーの台は、昭和40年代中頃まで一般的だった「四つ玉」(※1)用の台。今もこのゲームができる店は少なく、ビリヤード山崎の歴史の長さを物語っている。本棚に並ぶのは、ビリヤードとは無関係のアカデミックな内容の書籍で、特に洋書が多いのが目をひく。どうやら、この店には古いだけではない何かがありそうだ。
経営者の平山道子さんに、創業当時のエピソードに始まるビリヤード山崎の過去について語っていただき、老舗ビリヤード場にある何かを探ってみた。道子さんは、創業者の山崎助(たすけ)さんのめいで5代目の経営者。80歳を超えているとは思えないさっそうとした立ち居振る舞い、特にキューを手にした姿は堂に入ったものである。
※1 四つ玉:4個の玉を用い、点数を付けるビリヤードゲーム。台に穴は空いていない。現在は、数字の付いた9個の玉を順番に穴に落としていくプールゲームが主流
理想に燃えた青年と起業家の出会い
創業者の山崎助さんは、1880年代頃 (明治時代後半)、岡山県で藍染と農業をなりわいとする旧家の次男として生まれ、社会改良活動(※2)に取り組むため上京する。青少年の教育に関心を持っていた助さんは、情報収集のため渡米、帰国後に本格的に活動を始めた。当時の住まいは現在の港区芝だったが、後に生家が子供たちの教育のために西荻窪に住宅を購入し、杉並に移り住むことになった。「叔父は、貧しく教育を受ける機会のない若者が働きながら学べるように、労学院施設を作ることを夢見ていました。資金集めのため資産家に理想を説いて回り、寄付を募っていたようです。中でも意気投合したのが、日本有数の起業家大倉喜八郎(※3)でした。」道子さんが聞き知る助さんの若き日の姿である。
大倉喜八郎の贈り物
「昭和の初め(1926年頃)、大倉喜八郎が生活費の足しになるようにと、この場所に平屋建てのビリヤード場を寄贈してくれました。これがビリヤード山崎の始まり。ビリヤード台が2台あり、奥は住まいになっていました。」と道子さん。本棚には、助さんが若者の教育のために収集した教養書が並び、学べるビリヤード場が誕生する。驚くのは、政府から譲り受けたというウェブスター初版本(※4)の存在である。太政官文庫と書かれた文字を消して山崎の蔵書印が押してあるとのこと。ウェブスター初版本のあるビリヤード場はおそらくビリヤード山崎だけだろう。
※2 社会改良活動:革命や階級闘争を否定して、労働組合や労使協調による資本主義社会の穏健な改良を訴え、労働者の福祉や社会保障の充実を通し漸進的に社会を変えることを目指した活動である。
※3 大倉喜八郎:実業家。多くの企業を興し、帝国ホテル、帝国劇場などの設立に関わる。東京経済大学の前身である大倉商業学校を創設するなど、社会貢献にも熱心だった(1837-1928)
※4 ウェブスター:19世紀初頭にアメリカ人ノア・ウェブスターが編さんした一連の辞典。英語辞典の代名詞として名高い
開業当時、西荻窪界隈は、1923年(大正12年)の関東大震災以後都心より移り住む人々が増えていた。新しい物好きな人が多く、時代の先端を行く遊戯としてビリヤードを楽しんだという。西荻窪にはビリヤード場が3軒あり、経済的にゆとりのある人が副業として経営することが多かったそうだ。
助さんは1928(昭和3)年に結核のため世を去り、弟で道子さんの父親である平山要治(ようじ)さんが経営を引き継ぐ。要治さんは1905(明治38)年生まれ。旧制中学入学のため上京し、大学に通いながら店を手伝い、助さんの看護をしていた。「父はビリヤードに夢中になり大学を中退したようです。妻子もいたので生計をたてる必要もあったのではないかしら。」と道子さん。彼女は1934(昭和9)年に現在の場所で生まれた。「父は多趣味な人でした。野球、テニス、水泳、弓なんでも器用にこなし、ビリヤードの腕は相当なもの。父とプレイするために多くの人が店を訪れたものです。対等にプレイできる人は中央線沿線に10人くらいだったかも。冷房がなかったから、夏には海水浴場にビリヤード台ごと出張営業したこともありました。」
中島飛行機はビジネスパートナー
ビリヤード山崎は、客層も他の店とは異なっていた。中島知久平さん(なかじまちくへい、中島飛行機社長)、岸田国士さん(きしだくにお、劇作家)、塚田正夫さん(つかだまさお 将棋棋士) 、呉清源さん(ごせいげん 囲碁棋士)、桜井眞一郎さん(さくらいしんいちろう 日産スカイライン設計者)など著名人も訪れ、最高裁判所の判事も常連客の1人だったそうだ。
中でも道子さんの記憶に強く残るのが、現在の桃井に工場があった中島飛行機との関係だ。常連客だった社長の中島知久平さんに勧められ、要次さんは、1939(昭和14)年蒲田に三共ダイヘッド製作所という会社を立ち上げる。ダイヘッドとは、金属の面取りをする工具のことで、ねじ切りとも呼ばれている。戦闘機用のねじの生産に欠かせず、中島飛行機からの受注を受け生産していた。中島知久平さんは、常連客であると同時にビジネスパートナーでもあったのだ。しかし、中島飛行機の工員は、他のビリヤード場でプレイしていたらしい。社長と一緒にプレイすることになるビリヤード山崎は、彼らにとって足を運びずらい場所だったのだ。彼らは「ビリヤード山崎は社長が来るから、背広にネクタイを着用しなければならない。」と話していたらしい。道子さんは、「大勢の工員が来てくれたほうが商売になるのに」と母親がよくぼやいていたのを覚えているとのこと。
1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まり、中島飛行機は戦時体制下でフル稼働し、三共ダイヘッド製作所も好経営を続ける。西荻窪でも空襲による延焼を避けるため取り壊された店舗もあるなか、ビリヤード山崎は中島飛行機との密接な関係があり存続できた。
遊びへの飢えを満たしたビリヤード
経営していた三共ダイヘッド製作所が1945(昭和20)年8月15日終戦の日に空襲で全焼し、要治さんはビリヤード場の経営を本業とすることになった。当時の西荻窪は、取り壊された店舗跡に闇市が立ち並び、復興への第一歩を踏み出したところ。戦時中以上の食料難の時代である。遊びより食べることが最優先されたのでは、と思いきや、ビリヤード山崎は復員兵でにぎわったという。手持ち金の乏しい彼らは、軍支給の防寒具を売って資金を作り、店に足を運んだそうだ。防寒具を料金の代わりに置いていく人もいた。「防寒具をほどいてみたら、中には真綿と紙がはさみこんでありました。進駐軍の兵士は皮のジャケット姿。日米の物量の差を思い知らされました。」道子さんにとってかなり衝撃を受けた体験だったようだ。
当時の四つ玉ゲームでは、点数計算のため台に1人ずつ女性が付いていたので、ビリヤードは女性と接することのできる遊びとしても人気があった。「みんな遊びに飢えていました。食べ物の飢えよりも強かったのかもしれません。ほら人間て、ホモ・ルーデンス(※5)だから。」
※5 ホモ・ルーデンス:オランダの歴史学者ホイジンガの著書。遊戯人の意。遊戯は人間活動の基本であるという思想
要次さんは1972(昭和47)年に他界、要次さんの妻が店を引き継いだ。その頃、ビリヤード山崎は中央線沿線で一番台が多い(8台)ビリヤード場になっていた。1986(昭和61)年、映画『ハスラー2』(※6)の大ヒットにより、若者の間にビリヤードブームが巻き起こる。ビリヤード山崎も予約が必要になるほどにぎわった。「常連さんはゴールデンメンバーと呼ばれていました。今は足が遠のいているけれど、2005(平成17)年に私と母の“ビリヤード山崎家族展”(※7)を開いた時に、わざわざ秋田から駆けつけてくれた人もいました。」と道子さん。道子さんの母亡きあとは兄が、2009(平成21)年からは、道子さんが店を切り盛りし現在に至っている。ビリヤードブームはすでに去り、客足もめっきり減ったが、道子さんはビリヤードを愛し、足を運んでくれる客のために店を開け続ける。高齢になり、引退という言葉が頭をよぎることもあるとのことだが、健康の許す限り続けたいという気持ちが強いようだ。
「ビリヤード教室をすればいいのかもしれませんが、私は時間を決めて教えるのは苦手なんです。楽しむためにフラッと立ち寄ってもらうのがいいですね。ファンあってのビリヤード場ですから。」道子さんは、客との時間にしばられない自由な関係を何より大切にしている。時間が空いた時に店番をして見返りにプレイを楽しむ青年、フラッと入ってきて日常生活の一部のように玉を突き帰っていく初老の男性。ビリヤード山崎は誰をも優しく迎え入れてくれる空間だ。それは、道子さんいわく「自分を語る人が多く、すぐ友達ができるまち」西荻窪に似つかわしい。
※6 『ハスラ―2』:主演トム・クルーズ、ポール・ニューマン、監督マーティン・スコセッシのアメリカ映画。それまで主流だった4つ玉に代わり、プールゲームが台頭する契機になった
※7 平山さんは美大出身。お母様は70歳で油絵を習い始めた。共に絵心のある2人の最初で最後の個展になった
<料金>
ポケットビリヤード 10分単位 100円
スリークッション(四つ玉も可) 5分単位 70円