散歩生活

著:中原中也 (角川書店『新編 中原中也全集 第四巻』に所収)

詩人、中原中也さんの希少な短編小説。「汚れつちまつた悲しみに……」「サーカス」「言葉なき歌」など、心底に響き渡る詩の数々で支持され続ける中原さんだが、膨大な創作ノートには小説も残されていた。その中の未発表の一編。
話は、主人公がほうほうのていで、自宅のある駅にたどり着く描写から始まる。
「私は私一人の住居のある、西荻窪の駅に来てみると、まるで店燈がトラホームのやうな〔に〕見える。水菓子屋が鼻風邪でも引いたやうに見える。薄〔入り口の〕暗いカフェーの、中から唄が聞え〔こゑ〕出るてゐる。」
中原さんは、郷里の山口から、京都時代を経て1925(大正14)年に上京。プライベートな事情もあり、数年間、なかばボヘミアンのような暮らしをしながら、処女詩集『山羊の歌』に結実する詩を創作し続けた。その間、高円寺町高円寺(現・杉並区高円寺南)、高井戸町下高井戸(現・杉並区下高井戸)、高井戸町中高井戸(現・杉並区松庵)と、杉並でも暮らした。杉並での中原さんの生活については記録が少なく想像の域を出ないが、この一編は、主人公を通して、黒い帽子に黒マント、黒ズボンの、1929(昭和4)年から1930(昭和5)年にかけて西荻窪で暮らした中原さんの姿をはっきりとイメージさせてくれる。
おすすめポイント
中原さんはとにかくよく歩いた。歩いて人を訪ね、語り合った。訪ねて不在だと、相手が帰ってくるまで待っていたという。なにが本当、本物なのか、自身の感性や考え方をとことん通す性分で、その執拗(しつよう)さは、時に相手に嫌がられた。ことに酒がまわると喧嘩(けんか)となり、小柄な中原さんは相手にボコボコにされることもたびたびあったという。そうして棲(す)み家にたどり着き、創作ノートに向かう、それが、中原流散歩だった。
「なあに、今日は雨が降るので〔却々〕散歩に却々出ないんだ。」(※)といいながら、「雨が降っても傘がある。電車に乗れば屋根もある。」と、虚(うつ)ろに迎えた翌朝、主人公はまたその日の散歩で気持ちを切り替える。
根っからの詩人で、小説をはじめ散文は苦手だったといわれる中原さん。その苦手の小説で、詩からは分かりにくい実生活がついついこぼれ出ているところが、おかしくもある一編だ。

※引用文章、〔 〕も含め原文ママ。「却々」の読み方は「なかなか」

DATA

  • 取材:井上直
  • 掲載日:2017年05月22日