中原中也さん

歌い継がれ、語り継がれる詩人

中原中也(なかはら ちゅうや 1907-1937)は、山口県吉敷郡下宇野令村(現山口市)出身の詩人である。幼少の頃から短歌に親しみ、地元の防長新聞に投稿し入選した。15歳の時、友人と歌集「末黒野」を私家版として刊行する。
立命館中学に進学し、京都に暮らした時期は、学業より詩作に没頭。黒マントに黒帽子、奇矯ないでたちで、文学仲間を求めて徘徊(はいかい)した。ダダイズム(※1)に傾倒していたが、関東大震災の難を逃れて京都で創作活動していた詩人の富永太郎と知り合い、フランス散文詩(※2)に引かれる。
1925(大正14)年、富永が東京に戻った後、進学を口実に上京。富永を通じて小林秀雄、さらに小林の紹介で河上徹太郎、大岡昇平らと知り合い、語り合う中で、詩人として生きていくことを決意する。音楽集団「スルヤ」(※3)の活動に参加、また自ら音頭を取り同人誌「白痴群」(※4)を創刊し詩を発表。活発な創作活動を展開するが、その道程は苦闘の日々だった。

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中原中也(写真提供:中原中也記念館)

中原中也(写真提供:中原中也記念館)

究極の言葉を求めて彷徨(さまよ)う

中原は、京都に進学してから1933(昭和8)年に上野孝子と結婚するまでの日々を、「毎日々々歩き通す。讀書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩くなり」(「我が詩観」より)と記している。上京後も京都時代同様、居を転々とし、仲間を求め徘徊、論争、けんかをふっかけることもしばしばだった。一方、気に入った相手には執拗(しつよう)に近づいた。既成概念、生活概念に対しての詩人としての抵抗心といわれている。しかし、本当は繊細で気弱な性格だった。
苛烈さは、詩作においても同様だった。目指す詩について「「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい」(『芸術論覚え書』より)と記している。孤独、望郷、恋、祈り…、誰しもが持つ思いを深く掘り下げ、ことに音韻と口語表現にこだわり、何度も何度も書き直し(※5)、たんに心境を歌うのではなく、言葉が生命力を持つ個性的な詩を生み出した。

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創作ノート「ノート少年時」、「女よ」の1ページ。創作日は1928(昭和3)年12月18日(写真提供:中原中也記念館)

創作ノート「ノート少年時」、「女よ」の1ページ。創作日は1928(昭和3)年12月18日(写真提供:中原中也記念館)

高円寺で詩人として開眼する

徘徊の足跡は、杉並にもいくつか残されている。
高円寺(現高円寺南)。1925(大正14)年5月~11月。
小林秀雄の家のそばに暮らした。「いよいよ詩に専心しようと大体決まる」と『詩的履歴書』に記した時期。ともに京都から上京した長谷川泰子が小林のもとに去り、中原も高円寺を去った。
長谷川は「みんな集まって、なにを話していたか知りませんが、あの人たちは文学の話以外はありません」(『中原中也との愛 ゆきてかへらぬ』より)と、友人たちと夜を徹して議論する中原の様子を回想している。高円寺で創作した詩は、創作ノートによると「秋の愁嘆」。未発表の小説「我が生活」は、高円寺時代の中原自身が主人公として登場する。
下高井戸。1928(昭和3)年9月~12月。
スルヤの同人、関口隆克が仲間と共同生活をしている家に転がりこんだ。下高井戸の田園環境が気に入ったのか、創作に専念した。
関口は「三人ともみつ葉が好きで毎日のようにつけで買ってきて月末の勘定が百円になって驚いたり」「一夏中かけっぱなしの外套を中原が羽織ったら仔鼠が十数匹も転げ落ちたり」(「中原中也との出合いと別れ」より)と、当時の暮らしぶりを回想している。下高井戸で創作した詩は、創作ノートによると「女よ」「幼年囚の歌」。未発表の小説「北沢風景」は、下高井戸時代の中原自身が主人公として登場する。
中高井戸(現松庵)。1929(昭和4)年7月~翌年9月。
「白痴群」の仲間、古谷綱武の紹介で知り合った彫刻家・高田博厚のアトリエの近くに暮らした。高田が中心に運営していた三鷹村牟礼の芸術家村「赤い家」に度々出入りし、刺激を受けた。高田の渡仏により中高井戸暮らしは終わった。
高田は自伝的エッセイ『分水嶺(ぶんすいれい)』で、「赤い家」に遊びに来てメンバーの弾くギターに合わせて歌う中原を回想している。中高井戸で創作した詩は、創作ノートによると「夏」「夏と私」「湖上」。未発表の小説「散歩生活」「無題(書き出し「の上の、画家の」) 」は、中高井戸時代の中原自身が主人公として登場する。

高円寺、中原が暮らした付近(現在の様子)

高円寺、中原が暮らした付近(現在の様子)

下高井戸、中原が暮らした付近(現在の様子)

下高井戸、中原が暮らした付近(現在の様子)

中高井戸、中原が暮らした付近(現在の様子)

中高井戸、中原が暮らした付近(現在の様子)

後世に残された、二冊の詩集

中高井戸暮らしの後、詩集『山羊の歌』の編集に着手する。また、東京外国語学校専修科に入学、フランス語を勉強し直す。1934(昭和9)年には、資金面で難航していた『山羊の歌』の刊行を自費出版で実現。「歴程」、ついで「四季」の同人となり、中原中也とその詩は次第に知られるようになっていった。この間、青山二郎、草野心平らと親交を深めた。その後、詩の新境地を求め、詩集『在りし日の歌』の構想実現に踏み出す。しかし、溺愛していた長男が病死し、神経衰弱が昂(こう)じて療養所に入院。退院後、郷里に帰る決心をするが、脳膜炎を発症。1937(昭和12)年、30歳の若さで永眠した。
小林秀雄に託された『在りし日の歌』は、死の翌年に出版された。中原の詩は、生前はオーソドックスな抒情詩(じょじょうし)と受け取られ、なかなか評価されなかった。だが、戦後の1947(昭和22)年、友人たちの尽力もあり『中原中也詩集』(創元社)が出版されるに至り、広く知られ、愛誦(あいしょう)されるようになった(※6)。

※1 ダダイズム:ヨーロッパで始まった、既成の秩序や常識を否定、攻撃、破壊を主唱した芸術運動。中原は京都時代、高橋新吉の詩集『ダダイスト新吉の詩』に出合い、大きな影響を受けた

※2 散文詩:内面的な世界を象徴的に表現する詩の潮流。中原はランボーの詩に心酔。1937(昭和12)年に『ランボオ詩集』を出版した

※3 スルヤ:諸井三郎、内海誓一郎らによる音楽集団。中原は河上を通じて諸井と知り合った。諸井は中原の詩に感動し、歌曲として作曲、スルヤの演奏会で発表した

※4 「白痴群」:同人に河上、大岡、古谷、安原喜弘など。河上は「白痴群」の主旨ついて「俗物社会に対する行進」(『わが中原中也』より)と表現、回想している

※5 中原は詩を創作する際、大学ノートを使用していた。ノートは友人たちに形見として送られたが、そのうちの何冊かが現存している。これらの創作ノートから、中原が詩を完成させていく過程や創作年月日を知ることができる

※6 中原の郷里、山口県山口市内には、現在4つの詩碑が設置されている。また、中原中也記念館を中心に、中原中也の業績を後世に伝える数々の試みが続けられている

▼関連情報
中原中也記念館(外部リンク)

『山羊の歌 』(日本図書センター発刊 愛蔵版詩集シリーズ)

『山羊の歌 』(日本図書センター発刊 愛蔵版詩集シリーズ)

『在りし日の歌』箱と本体(日本近代文学館発刊 精選名著複刻全集)

『在りし日の歌』箱と本体(日本近代文学館発刊 精選名著複刻全集)

山口市内、井上公園の詩碑。『山羊の歌』に収録されている詩「帰郷」の一節が刻まれている(写真提供:中原中也記念館)

山口市内、井上公園の詩碑。『山羊の歌』に収録されている詩「帰郷」の一節が刻まれている(写真提供:中原中也記念館)

DATA

  • 出典・参考文献:

    『中原中也全集』中原中也(角川書店) 
    『新編 中原中也全集』中原中也(角川書店)
    『中原中也全詩集』中原中也(角川学芸出版) 
    『中原中也全訳詩集』中原中也(講談社)
    『中原中也 言葉なき歌』中村稔(筑摩書房)
    『中原中也』佐々木幹郎(筑摩書房)
    『知れざる炎 評伝中原中也』秋山駿(講談社)
    『中原中也』大岡昇平(講談社)
    『中原中也の手紙』安原喜弘(講談社)
    『わが中原中也』河上徹太郎(昭和出版)
    『中原中也との愛 ゆきてかへらぬ』長谷川泰子著・村上護編(角川学芸出版)
    『私の上に降る雪は わが子中原中也を語る』中原フク述・村上護編(講談社)
    『分水嶺』高田博厚(岩波書店)
    『群像 日本の作家15 中原中也』大岡信・高橋英夫・三好行雄編(小学館)
    「中原中也の世界」(中原中也記念館)
    『山羊の歌 』中原中也(日本図書センター)
    『在りし日の歌』中原中也(日本近代文学館)

  • 取材:井上 直
  • 撮影:井上 直
    写真提供:中原中也記念館
  • 掲載日:2022年03月14日