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3.杉並アニメ史の幕開け

東京ムービーがやって来た!

1963(昭和38)年に放映されたテレビアニメ「鉄腕アトム」以降、日本のアニメーションは黎明期を迎える。同業他社が続々とテレビアニメに参入し、放送作品数も年々増加していく。
そんな中、テレビアニメ制作を目的としたプロダクションも登場。1962(昭和37)年には「タイムボカンシリーズ」で知られる竜の子プロダクション(現タツノコプロ)が、漫画家吉田竜夫によって国分寺に設立される。テレビアニメ第1作となる「宇宙エース」のほか、「科学忍者隊ガッチャマン」など数々のオリジナル作品を制作していく。
そして、1964(昭和39)年10月、杉並に初めてアニメ制作会社東京ムービー(現トムス・エンタテインメント)が誕生。杉並アニメ史の幕開けとなった。

オバケのQ太郎誕生

後に「巨人の星」「アタックNo.1」「ルパン三世」など数々の名作を生む東京ムービー。TBSが人形劇団ひとみ座にいた藤岡豊さんに「人形劇もアニメーションも一緒だろう」と、アニメ制作を依頼したことから、同社が設立された。1964(昭和39)年5月、TBSの一室に撮影台を持ち込んでスタート。初作品となる「ビッグX」の放映後、すぐにスタッフが増えて手狭になり、10月に阿佐ヶ谷住宅(※1)の近くにあるビルに移転することになった。
杉並アニメーションミュージアムの鈴木名誉館長に当時の思い出をうかがった。
「実は東京ムービーに来ないかって誘われたこともあります。ひとみ座の人たちはアニメの作り方もわからないし、絵を描ける人もいなかったから人材をかき集めていたんです。でも、漫画家仲間と会社(スタジオゼロ)を作ったのでお断りしました。」だが、仕事でのつながりはあったという。「スタジオゼロの第1作アニメは「おそ松くん」ですが、その前に「オバケのQ太郎」のパイロット版(※2)を作りました。当時まだ、スタジオゼロにもアニメを作る体制がなかったので、テレビ局に提案だけして、制作は東京ムービーがすることになりました。」
1965(昭和40)年、杉並生まれのアニメ第1作「オバケのQ太郎」が放映される。「アトム」の影響でSFアクションものが多かったテレビアニメ界に突如登場した「オバQ」は、素朴な笑いと心温まるストーリーが子供たちに人気となり、大ブームを起こすことになった。

※1 阿佐ヶ谷住宅:成田東にあった全戸数350世帯の分譲型集合住宅地。1958(昭和33年)竣工、2013(平成25年)に解体。2016(平成28)年に新たに民間マンションが竣工した

※2 パイロット版:放送開始・一般公開に先行して試験的に制作される映像作品

「オバケのQ太郎」に登場するキャラクター、いつもラーメンを食べている小池さんのモデルにもなった鈴木名誉館長

「オバケのQ太郎」に登場するキャラクター、いつもラーメンを食べている小池さんのモデルにもなった鈴木名誉館長

次々と関連会社が設立

東京ムービーでは「オバケのQ太郎」以降、「巨人の星」「アタックNo.1 」「天才バカボン」など作品が急増。1社での制作は困難となり、制作工程(左図)を分業するため、阿佐谷を中心に背景(美術)、仕上げ(セル彩色 ※4)、撮影などを専門に請け負う関連会社がいくつも設立された。
1970(昭和45)年、荻窪に設立されたオープロダクションもその一つ。作画を専門とし、「アタックNo.1 」などを担当した。2016(平成28)年現在、区内で一番古いアニメ制作会社となっている。
(東京ムービーの紹介は、4ページのコラム1に続く)

※3 絵コンテ:作品の画面(カット)ごとに、画面内の絵の構成やセリフ、場面の説明などを書いたもの。作画や美術スタッフへの指示書にもなる

※4 セル彩色:セル(セルロイドの略)に転写された絵に、専用の絵の具で色を塗る作業。セルロイドは燃えやすく危険なため、後に難燃性のポリアセテートフィルムが使われるようになった

図:当時のアニメーション制作工程

図:当時のアニメーション制作工程

虫プロダクションからマッドハウスへ

一方、虫プロダクション(以下、虫プロ。2ページ・コラム3参照)は、「鉄腕アトム」放映後も国産初の本格的カラー作品シリーズとなった「ジャングル大帝」などの作品を続々と送り出していた。1970(昭和45)年には「あしたのジョー」を制作。演出の出﨑統さん(※5)は、同社が生み出した省力化システム(動画枚数を少なくし、動かない部分は一枚絵を多用する手法)を逆手に取り、タッチを利かせた劇画調の画面や光の表現を多用した「一枚絵で見せる」手法を考案。その後のアニメの演出に大きな影響を与えることになった。しかし、虫プロは省力化システムのため低予算で受注していたことなどから経営難に陥り、1973(昭和48)年に倒産してしまう。
倒産の前年、虫プロ出身者によって、阿佐谷にアニメ制作会社マッドハウスが設立される。集まったのは出﨑統さんら「あしたのジョー」のスタッフを中心にした30人ほどのメンバーだった。設立メンバーの一人で、現在、アニメーション制作会社スタジオM2の代表取締役丸山正雄さんが当時のことを語ってくれた。
「虫プロがつぶれそうになって、このままだとダメかなぁという時に、東京ムービーの藤岡社長に相談したら、“阿佐谷に来いよ。仕事もちゃんと用意するから”って言われて。それで、阿佐谷にスタジオを構えることになりました。」

※5 出﨑統(でざきおさむ):演出家・監督。1963(昭和38)年、虫プロに入社。その後フリーになり、「あしたのジョー」で初監督を務める。マッドハウス設立後は「エースをねらえ!」「ガンバの冒険」「ベルサイユのばら」など多くの作品を手がける

ボウリング場の跡地で生まれたアニメ

1972(昭和47)年、マッドハウスは阿佐谷、中杉通り沿いにある伊勢和材木店のビルの2階からスタートした。2年後、区役所の向かいにあったボウリング場が閉館になり、そこへ移転。「壁を全部ペンキで幼稚園みたいな色に塗りました。当時は“会社”という形態がちゃんとしていなくて、もっとグループ的というか遊びに近いというか、好きなことを好きにやっているわけですから面白かったです。」と、丸山さんは当時のことを語る。
設立当初は東京ムービーの外注プロダクションとして「ガンバの冒険」「エースをねらえ!」などを制作。その後、自社作品として、映画「はだしのゲン」「メトロポリス」、テレビ「YAWARA!」「カードキャプターさくら」「はじめの一歩」「NANA」など、数多くの作品を手がけていく。現在、国内外で高い評価を受ける細田守監督(※6)の代表作「時をかける少女」「サマーウォーズ」を製作したのもマッドハウスである。
2003(平成15)年、長く過ごした区役所前のスタジオから成田東へ移転。その後、荻窪を経て、2010(平成22)年に現在の中野に移転するまでの36年間、マッドハウスは杉並でアニメを作り続けた。

※6 細田守(ほそだまもる):アニメーション映画監督。1991(平成3)年、アニメーターとして東映動画に入社。2005(平成17)年に退社し、フリーとなってマッドハウスを制作基盤として活動。2011(平成23)年、杉並に自身のアニメーション映画制作会社スタジオ地図を設立し、活動を続けている

▼関連情報 
すぎなみ学倶楽部>産業・商業>杉並のアニメ>スタジオ地図

写真中央の白いビルにマッドハウスが入っていた

写真中央の白いビルにマッドハウスが入っていた

時をかける少女(写真提供:スタジオ地図)

時をかける少女(写真提供:スタジオ地図)

DATA

  • 出典・参考文献:

    「杉並アニメ物語」大地丙太郎監修(広報すぎなみ)
    『日本のアニメ全史』山口康男編著(TEN-BOOKS)
    『日本アニメーションの力 85年の歴史を貫く2つの軸』津堅信之(NTT出版)
    『アニメーション学入門』津堅信之(平凡社新書)

    協力:杉並アニメーションミュージアム

  • 取材:坂田、みやうちえいこ
  • 撮影:TFF 写真提供:スタジオ地図
  • 掲載日:2016年12月26日
  • 情報更新日:2024年04月03日