現在、トムス・エンタテインメント特別顧問を務める吉田力雄さんが、東京ムービーに入社したのは、1978(昭和53)年のこと。「初めて筆記試験が行われた年で、受けたのが60人、受かったのは2人でした。面接で“野球ができますか?”“トラックの運転はできますか?”と聞かれて、“できます”と言ったらそれで合格。そんな会社でしたね。」
晴れて入社した吉田さんは、まもなく「新巨人の星Ⅱ」の制作進行(※1)を担当。当時の制作進行は車のドライブテクニックも問われたというぐらい、制作スケジュールがタイトだったという。「シナリオが上がったら、絵コンテの回収。アニメーターから原画が上がってくるのを待って動画の手配、それをセル画にして、撮影、編集、最後に現像。とにかく時間がありませんでした。」
1979(昭和54)年から80年にかけて、東京ムービーでは毎週放送されるアニメ作品を10本前後抱えていた。そのため、国内だけでは間に合わず、韓国で作画作業を行っていた。「毎週、ハンドキャリーで300キロ、ダンボール20箱ぐらいセル画を運んでいました。成田空港の通関で止められて、“これは「巨人の星」のセル画なんだ、放送に間に合わない”と説明したこともありましたね。韓国の会社から上がってきた絵を見ると、グラウンドをランニングしている選手のはずが軍隊の行進のようになっていたり、飛雄馬の掛け布団がよくある韓国の布団のようにピンクや黄緑色に塗られているなんてこともありました。放送までに間に合えば直しますが、間に合わなければそのまま。自分で塗ったこともありましたね。」
※1 制作進行:制作スケジュールなどを管理する役割(当時、東京ムービーは演出助手として採用)
1979(昭和54)年12月、東京ムービーから1本の名作が誕生する。宮崎駿さん初の映画監督作品、劇場版「ルパン三世 カリオストロの城」だ。宮崎さんは1963(昭和38)年、東映動画に入社。アニメーターとして活躍する。1971(昭和46)年に東映動画を退社後、いくつかの制作会社に移籍し、日本アニメーション制作のテレビアニメ「未来少年コナン」より、演出を手がけるようになる。
「カリオストロの城」制作当時のことを吉田さんに聞いた。
「最初は別の作品の企画で宮崎さんに参加してもらったんですが、原作者の許可が下りずにダメになってしまって。その後、同じ東映動画出身の大塚康生さん(※2)が宮崎さんを誘って、テレビシリーズの「ルパン三世」に参加してもらって、「カリオストロの城」も一緒に作りました。ぼくもスタッフとして参加していましたが、その時も毎日会社に泊まり込みでしたね。」
本作は「カリ城」の名で親しまれるなど、今も多くのファンに愛されている。
※2 大塚康生(おおつか やすお):作画監督。東映動画で「白蛇伝」「わんぱく王子の大蛇退治」などの原画を担当。「太陽の王子 ホルスの大冒険」で作画監督を務めた後、東京ムービーを拠点に、「ムーミン」「ルパン三世」「パンダコパンダ」など多くの作品を手がける
当時は給料を使う時間もないほど忙しかったという吉田さんだが、楽しい思い出しか残っていないという。「今じゃ考えられないけど、仕事の合間に近所の公園でバレーボールや野球をやったり、深夜に阿佐ヶ谷住宅の敷地内をマラソン5周なんてやっていました。ばかみたいだけど当時は楽しくてね。スナックで花籠部屋(※3)の力士・魁傑(かいけつ)さんと顔見知りになって、よく一緒に飲みました。」
セキュリティーも万全でなく、セル画が盗まれたこともあったという。「原画を回収中に車が盗まれたこともありましたし、善福寺川があふれて浸水して、アニメのフィルム原版が水に漬かったなんてこともありました。それでも、悪い思い出ってないですね。毎日、作品を作り上げるためにずっと動いて、最後にオールラッシュっていって、フィルムを棒つなぎした(※4)作品を観るんですが、最終話になると達成感で涙が出ました。」
1983(昭和58)年、東京ムービーは中野区に移転。およそ18年間、杉並で数々の作品を生み出し、「アニメのまち」としての発展に貢献した。
※3 花籠部屋:阿佐谷にあった相撲部屋
※4 棒つなぎ:現像したフィルムをそのまま繋いだ、編集前のもの
東京ムービーが阿佐谷にあった頃、社員がよく出前を取っていた店が今も残っている。青梅街道沿い、中央図書館近くにある御食事処 藤野家だ。1926(昭和元)年創業、2016(平成28)年で90年を迎えた老舗食堂である。3代目のご主人・齋藤雅樹さんは当時のことをよく覚えていると言う。「もともと、店の近所にあった小林プロダクション(※5)と付き合いがあって、そこの紹介で東京ムービーにも出前に行くことになりました。毎日、昼と夜、お弁当と納豆とか、カレー、オムライスとか。みんな夜仕事するから、昼間はバレーボールしたり野球したり、遊んでることもありました。毎日行くから顔見知りになって、一輪車を借りて練習したこともあったけど、乗れませんでしたね。」放映前の作品のセル画もよく目にしたという齋藤さん。「置いてある絵を見ても部分的なものだから、何を描いているのかわからない。セル一枚一枚でしょ、それだけ見ても、どういう作品ができるかわからなかったですね。できあがった作品はテレビで見たり、劇場にも観に行きましたよ。」
藤野家では他にもマジックバス(※6)やマッドハウスなど、近隣のアニメ制作会社に出前をしていたという。「今もアニメの会社とはご縁があるんです。すぐ近所にも会社があるので出前に行ったり、食べに来てもくれますね。」
今も昔もアニメーションが杉並の地場産業だとわかるエピソードの一つである。
※5 小林プロダクション:1968(昭和43)年にアニメーション美術監督の小林七郎さんが設立した背景美術制作会社
※6 マジックバス:1977(昭和52)年にアニメーション監督で演出家の出﨑哲さんが設立したアニメ制作会社。「あしたのジョー」の監督、出﨑統さんは実弟
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「杉並アニメ物語」大地丙太郎監修(広報すぎなみ)
『日本のアニメ全史』山口康男編著(TEN-BOOKS)
『日本アニメーションの力 85年の歴史を貫く2つの軸』津堅信之(NTT出版)
『アニメーション学入門』津堅信之(平凡社新書)
協力:杉並アニメーションミュージアム