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江渡狄嶺さん 【中編】愛知大学教授・岩崎正弥さんに聞く

愛知大学教授・岩崎正弥さん(狄嶺会メンバー)

江渡狄嶺没後も、その遺業を継ぐべく有志による狄嶺についての研究が続いた(※1)。1968(昭和43)年、資料整理と雑誌「江渡狄嶺研究」(※2)の発行を担うため、正式に「狄嶺会」が発足。直弟子をはじめ、哲学者、農学者、宗教学者、在野の歴史家など、さまざまな立場で狄嶺を研究する人々が参加した。2001(平成13)年に7人の研究者による共著『現代に生きる江渡狄嶺の思想』を出版。その後も2007(平成19)年頃まで、高井戸の「狄嶺文庫」で例会が開催されていたという。メンバーの中で最も若い愛知大学教授・岩崎正弥さんに、現代に伝えたい狄嶺の魅力を教えてほしいとお願いしたところ、快くインタビューに応じてくれた。


岩崎正弥さん

岩崎正弥さん

岩崎さんが、最初に高井戸の狄嶺文庫を訪れたのは、京都大学大学院で農業思想史を研究していた1992(平成4)年のこと。狄嶺の孫にあたる江渡成幸さんの案内で、資料を見せてもらったという。その後狄嶺会に加わり、前掲の共著で狄嶺の地域論について執筆。2010(平成22)年には自著『場の教育―「土地に根ざす学び」の水脈』(※3)を出版し、その中で狄嶺の教育論を紹介している。

同時代の帰農者の中で、最も農業の現場に近かった狄嶺

岩崎さんが江渡狄嶺に興味を抱いたのは、石川三四郎(※4)の研究がきっかけだった。彼の交友関係をたどるうち、狄嶺に行きついたという。
「1910~20年代の日本は、トルストイの思想に影響を受けた知識人たちが、次々と帰農した時代でした。石川三四郎もその一人で、1927(昭和2)年に東京郊外で帰農しています。彼の周辺には帰農した知識人がたくさんいましたが、一口に帰農と言っても、その内実はさまざまです。例えば、徳冨蘆花(とくとみろか)は洋服を着て肥え桶をかつぐというような美的百姓でした。人によって持続度もいろいろで、実際には2、3年で離農する人も多かったのです。そんな中で、一番農業に関わり、そこから哲学思想をくみ上げようとしたのが狄嶺だったのではないかと思います。」

『場の教育-「土地に根ざす学び」の水脈』。岩崎さんは、本書で狄嶺を紹介

『場の教育-「土地に根ざす学び」の水脈』。岩崎さんは、本書で狄嶺を紹介

岩崎さんは、これら帰農した人々を「帰農農本主義者」と呼んで研究した。「ある人の思想を研究する際、“言説と態度の複合”で見るという視点があります。言説はいいことを言っても実践が伴っていないと、その人の思想の深みはわからないという考え方です。それで言うと、狄嶺は“生活と言葉を一致させる”ことを目指して、実践に努めた人だったと言ってよいでしょう。ただ狄嶺は非常にお酒が好きで、帰農後も特に後年は思想活動が中心だったことから、実際に農作業をしていたのは、妻のミキさんと三蔦苑のメンバーの小平英男さん、それから弟子たちだったという話もあります。しかし狄嶺が、農業を営んでいた“場”にいたことは事実ですし、身近に見る実践を通して、そこから思想をくみ取ろうとしたことは間違いないでしょう。」

「半農半X(エックス)」というライフスタイルの先駆者

現在、岩崎さんは農業思想の研究をバックボーンとしながら、農山村の地域振興の課題に取り組んでいる。学生と一緒に中山間地域に入り、そこでIターン、Uターンの帰農者と出会うことも多い。
「狄嶺の時代も帰農ブームでしたが、現在も都市から地方に移って農業のある生活を選ぶというライフスタイルが一つの流れとなっています。例えば、京都の綾部市で農業をしている塩見直紀さんという方が提唱している“半農半X(エックス)”。これは半分は農業を実践しながら、半分はアート活動や執筆、レストラン経営など、自分の好きなことで自己実現するというライフスタイルです。今、移住者が多い農山村に調査に行くと、こうした人が多いと感じます。」中には高学歴の人が都会での仕事をやめて、百姓暮らしをするケースも多いという。
「狄嶺の生き方を実践面から見たとき、この“半農半X”の先駆者だったと言えるのではないでしょうか。狄嶺は帰農して非常に苦労しましたが、現代の移住者にもさまざまな悩みがあり、時代は違っても抱える課題の共通点は多いと考えています。狄嶺がどういう人物だったのかを彼の思想からアプローチすると非常に難解で、彼の“農乗曼荼羅(のうじょうまんだら)”に書かれているものを見ても全然わからない。でも経済至上主義の社会の中で農業に価値を見出して、新しい生き方を選んだ先駆者だったと考えると、現代的にも魅力ある人物だと思います。」

2008(平成20)年、京都府綾部市にある綾部市里山交流研修センターを視察する岩崎さん(写真提供:岩崎正弥さん)

2008(平成20)年、京都府綾部市にある綾部市里山交流研修センターを視察する岩崎さん(写真提供:岩崎正弥さん)

現代の地域づくりと、狄嶺の「場」思想の共通点

岩崎さんは、狄嶺の思想のどこに引かれたのだろうか。「私が特に魅力を感じるのは、彼が後半生に追究した“場”の考え方です。今、私は大学で地域振興の研究をしていて、人々が幸せになる地域づくりって何だろうかと日々考えています。いわば地域という“場”づくりですね。」
岩崎さんによると、狄嶺は“場”を、「くぎられない、包み込む、広がる」というような柔軟な多様性を持つ空間として表現しており、これは現代の地域づくりを考えていく上でも大切な視点だという。「例えば、徳島県神山町はITによる町おこしと古民家を改装したサテライトオフィスの開設で移住者を呼び、成功事例としてマスコミでも取り上げられている地域です。そこで大事にしているのは、移住者のやりたいことを受け入れて応援するというスタンス。地域の持つ寛容な雰囲気が居心地の良さを作りだし、人が来やすくなっているんですね。」

杉並区立郷土博物館に寄贈された狄嶺関連資料について、担当学芸員の説明を聞く岩崎さん(同博物館内にて)

杉並区立郷土博物館に寄贈された狄嶺関連資料について、担当学芸員の説明を聞く岩崎さん(同博物館内にて)

また、狄嶺は人がさまざまな活動をすることで、その場が良くなったり悪くなったりすると考えた。「学生と一緒に各地にフィールドワークに行くと、同じような産業構造の農山村でも地域によって雰囲気が全然違うんですね。やはり地域という空間には履歴があって、そこに関わった人々の活動の結果が現在の状態を作り出しているんだな、と実感します。狄嶺は三蔦苑という農場を通して、具体的な“場”づくりを実践しましたが、人々の活動の積み重ねを重視するという方法論は、現代の地域づくりにも共通する大事な視点です。」

桐野夏生さんの小説『ポリティコン』

取材の際に、岩崎さんから「桐野夏生さん(※5)が、小説『ポリティコン』の中で狄嶺を紹介している」と伺った。
『ポリティコン』は、大正時代、東北の寒村に芸術家たちがつくったユートピア「唯腕(いわん)村」が80年後の現代まで運営されているという設定で、現代の農業、農村が抱える問題を鋭く解き明かした作品だ。作中では、登場人物が語る形で、狄嶺のことを次のように紹介している。「著書にはこう書いてあった。昔は、自分もトルストイ・マニアだった、と。でも、今は違う、当時はあまりトルストイという人をよく知らなかったのだってね。知った今は違う、ということだろう。農業をやっていたから、地に足が着いている。強い自我と、実践に裏打ちされた自信がある。言うなれば、テキレイストとでも言えばいいんだろうか。思想の独自性が強いんだろうね。」農業実践にこだわり、独創的な主張を持つ狄嶺自身と弟子たちを「テキレイスト」と表現しているのではないかと思われる。
狄嶺は自著『或る百姓の家』の中で、「自分が播きつつある種子は100年後に初めて花が咲き実を結ぶだろう」と展望していた。狄嶺が1913(大正2)年に高井戸の土を耕し始めた時から100年を過ぎた今、多くの人に狄嶺の魅力を知ってほしい。

桐野夏生さんの小説『ポリティコン』(文春文庫)

桐野夏生さんの小説『ポリティコン』(文春文庫)

岩崎正弥さんプロフィール

1961年生まれ。京都大学大学院農学研究科農林経済学専攻博士課程修了(農学博士)。愛知大学地域政策学部教授。研究テーマは農本思想研究、地域づくり論。近年は中山間過疎地域の農山村を中心に学生とフィールドワークを行うなど持続可能な地域振興の課題に取り組む。

※記事内、故人は敬称略
※1:狄嶺の没後まもなく下中弥三郎らが発起人となって「農乗狄嶺会」が発足した。1958(昭和33)年には、狄嶺が晩年に追究した「場」の理論をまとめた『場の研究』(山川時郎編)が出版された
※2『江渡狄嶺研究』:1959(昭和34)年、有志により発行を開始した同人雑誌。狄嶺の残した資料を再録し、研究論考を掲載した。第13号から狄嶺会が発行を引き継ぎ、1995(平成7)年に第28号が刊行されるまで続いた
※3 高野孝子さん(野外・環境教育活動家、早稲田大学客員准教授)との共著
※4 石川三四郎:1876-1956。社会運動家。1903(明治36)年に幸徳秋水らの「平民社」に合流。無政府主義者として活動した
※5 桐野夏生さん:小説家。1999(平成11)年、『柔らかな頬』で直木賞受賞。『ポリティコン』は、2007(平成19)年~2010(平成22)年の4年間、雑誌「週刊文春」と「別冊文藝春秋」に連載された長編小説

DATA

  • 出典・参考文献:

    『或る百姓の家』江渡狄嶺(總文館)
    『土と心とを耕しつつ』江渡狄嶺(叢文閣)
    『場の研究』江渡狄嶺著・山川時郎編(平凡社)
    『江渡狄嶺選集(上・下)』江渡狄嶺(家の光協会)
    「江渡狄嶺研究 第1号~第28号」(狄嶺会)
    『江渡狄嶺書誌』大西伍一編(狄嶺会)
    『ミキの記録』大西伍一編(三蔦苑)
    『新版 日本の思想家 下』朝日ジャーナル編集部(朝日新聞社)
    『続 春汀、狄嶺をめぐる人々』鳥谷部陽之助(北の街社)
    『江渡狄嶺 目で見るその生涯』狄嶺会五戸支部(三土社出版部)
    『日本思想の可能性―いま…近代の遺産を読みなおす』鈴木正、山嶺健二編(五月書房)
    『江渡狄嶺― 場の思想家』和田耕作(甲陽書房)
    『現代に生きる江渡狄嶺の思想』斎藤知正、中島常雄、木村博編(農文協)
    『新修 杉並区史 中・下』(東京都杉並区役所)
    『文化財シリーズ39 高井戸雑話― 昭和の農民史』(杉並区教育委員会)
    『音楽への愛と感謝』尾崎喜八(平凡社ライブラリー)
    『場の教育― 土地に根ざす学びの水脈』岩崎正弥、高野孝子(農文協)
    『ポリティコン 上・下』桐野夏生(文春文庫)
    『農本主義のすすめ』宇根豊(ちくま新書)
    「日本読書新聞」昭和45年8月17日付掲載記事「江渡狄嶺 農業こそ原初的な聖業」大西伍一
    『半農半Xという生き方 決定版』塩見直紀(ちくま文庫)

  • 取材:内藤じゅん
  • 撮影:内藤じゅん
    写真提供:岩崎正弥さん
  • 掲載日:2017年02月13日
  • 情報更新日:2023年08月20日