石山太柏さん

画巻「一福千態(草稿)」部分。石山太柏が 17歳の時に作成した画巻の草稿。この画巻の完成により雅号「太柏」を受けた

画巻「一福千態(草稿)」部分。石山太柏が 17歳の時に作成した画巻の草稿。この画巻の完成により雅号「太柏」を受けた

武蔵野の風景を愛した日本画家

石山太柏(いしやま たいはく 本名・石山徳一郎 1893-1961)は、天沼で暮らし、武蔵野の面影(※1)が残る杉並の風景を描いた大正~昭和期に活躍した日本画家である。官展(※2)や院展(※3)に入選する技量を持ち、杉並の文化人からも高い評価を受けたが、太柏に関して残された記録や資料が少なく、近年まで注目されることがなかった存在であった。
2016(平成28)年、杉並区立郷土博物館分館の企画展「天沼弁天池があった頃~三人が残した足跡」(※4)の一人として取り上げられ、初めて知られるようになった。また、2018(平成30)年には、同館で単独の企画展「石山太柏 武蔵野の風景画人と杉並」(※5)を開催。代表作である武蔵野の風景画を中心に人物画や花鳥図、画巻(がかん)のほか、太柏が自ら作品に押す落款(らっかん)の印譜、絵の具箱など太柏ゆかりの品々を展示し、あらためて太柏の業績を知らしめる機会となった。
企画展を担当した同館学芸員の山田兼一郎さんの協力・監修の下、太柏の人となりや作品について紹介する。

※記事内、故人は敬称略
※1 明治中期以降、国木田独歩が著した『武蔵野』がもたらした新しい風景感。江戸の近郊農村として発展した杉並は、関東大震災まで雑木林・畑・原野が広がる「武蔵野」風景を色濃く残していた
※2 官展:明治末期から昭和戦前期まで存在した官設公募美術展。文部省美術展覧会(文展)、帝国美術院展覧会(帝展)があり、現在は日本美術展覧会(日展)として存続
※3 院展:日本美術院展覧会の通称、日本画の公募展
※4 都築甚之助(軍医)、宮崎三治郎(実業家)、石山太柏の3人
※5 会期:2018(平成30)年10月27日~2019(平成31)年1月20日

石山太柏。1955(昭和30)年ごろ、山形県最上郡赤倉温泉阿部旅館の茶室「観山亭」にて

石山太柏。1955(昭和30)年ごろ、山形県最上郡赤倉温泉阿部旅館の茶室「観山亭」にて

「杉並村の晩秋」1920(大正9)年。杉並の風景を主題とした初期の大作。第2回帝展入選作

「杉並村の晩秋」1920(大正9)年。杉並の風景を主題とした初期の大作。第2回帝展入選作

独立画家としての道

石山太柏は1893(明治26)年、山形県北村山郡(現東根市)で生まれた。地元で生涯唯一の師となる日本画家の柏倉雪章(※6)に日本画を学び、1911(明治44)年に上京してからは、師を持たず、弟子も取らず活動した。一時期、杉並村田端(現成田西3丁目)に住んだが、1918(大正7)年に天沼に邸宅兼アトリエを構えてからは、67歳で亡くなるまでそこで暮らしている。
1914(大正3)年、初出品ながら、文展で「渡し場」が、院展で「しもがれ(山寺)」「くれあい(赤湯)」が入選した。また、1919(大正8)年に初めての個展を東京美術学校倶楽部で催し、小説家の有島武郎(※7)から高く評価されたといわれる。
だが、初出展時を含め21年にわたり10回の院展入選を重ねたものの、院展に無鑑査での出品を許される資格である「同人」に推挙されることはなかった。1935(昭和10)年に日本美術院を脱退した太柏は、活躍の場を個展に求めるようになり、都内や故郷の山形県などで生涯で17回の個展を開催した。

※6 柏倉雪章(かしわくら せっしょう):1878-1925。日本画家。太柏の生地近くの山形県東村山郡豊田村(現中山町岡)の豪農の出身で、太柏を内弟子として迎え指導した
※7 有島武郎(ありしま たけお):1878-1923。小説家。白樺派の中心人物の一人で、小説『或る女』や評論を執筆

「朝靄(あさもや)の荻窪田甫(たんぼ)」(制作年未詳)。 横山大観らが試みた朦朧(もうろう)体という手法によって、朝の空気を表現している。独自の道を歩んだ太柏であるが、流行の手法も取り入れた

「朝靄(あさもや)の荻窪田甫(たんぼ)」(制作年未詳)。 横山大観らが試みた朦朧(もうろう)体という手法によって、朝の空気を表現している。独自の道を歩んだ太柏であるが、流行の手法も取り入れた

太柏は人物画も手がけている。この作品名は未詳だが、少女の愛らしさが伝わってくる

太柏は人物画も手がけている。この作品名は未詳だが、少女の愛らしさが伝わってくる

画家仲間や地元の名士たちとの交流

太柏は上京直後の大正初期から、日本画家・小茂田青樹(※8)や野田九浦(※9)、洋画家・中川一政(※10)ら、中央画壇で活躍する画家たちと交流していた。1921(大正10)年頃には、当時まだ学生だった井伏鱒二が、通っていた日本美術学校の紀淑雄(きの としお)校長に紹介されて石山邸を訪問。その様子が『荻窪風土記』に「荻窪の天沼キリスト教会の東隣に住む石山大白(ママ)画伯を訪問した」と記されている。
太柏が画壇から離れ、個展を中心に活動するようになってからは、1938(昭和13)年に結成された後援会「柏翠(はくすい)会」が画業を支えた。この会には、銀座にある株式会社伊東屋の創業者である伊藤勝太郎のほか、各界の著名人や杉並の名士が参加している。また1933(昭和8)年、杉並の風土を後世に伝えていくため、太柏の風景画を頒布する「武蔵野風景作画頒布会」が開催された。会の発起人には、井荻町長・内田秀五郎(ひでごろう)、天沼の地主・浅倉貞三郎(ていさぶろう)、上高井戸の地主・内藤庄右衛門(しょうえもん)と横倉善兵衛(ぜんべえ)、阿佐谷の地主・相澤弥一(やいち)など、地域の有力者たちの名前が見られる。
一方、太柏自身も「杉並区山形県人会」や、杉並町(※11)の同志による自治組織「杉並懇和会」の一員として、地元の集会などに顔を出していたようだ。「杉並懇和会」には「柏翠会」のメンバーや「武蔵野風景作画頒布会」の会員も参加しており、太柏が画業を通じて地域の人々と交流していた様子がうかがえる。

※8 小茂田青樹(おもだ せいじゅ):1891-1933。日本画家。1923(大正12)年に井荻村に居を構え、1929(昭和4)年に画業の研究会として「杉立社(さんりつしゃ)」を創設、太柏もメンバーだった
※9 野田九浦(のだ きゅうほ): 1879-1971。日本画家。1936(昭和11)年ごろに高井戸町へ移住。画業の研究会として「煌土社(こうどしゃ)」を主催した。太柏は第3回展覧会に出品
※10 中川一政(なかがわ かずまさ):1893-1991。洋画家。和田堀町に住み、太柏が天沼の自宅で開催した研究会「野草会」に参加
※11 杉並町:1924(大正13)-1932(昭和7)年。以降は杉並区 

小茂田青樹が創設した研究会「杉立社」の集合写真(昭和初期)。後列左から4人目が太柏

小茂田青樹が創設した研究会「杉立社」の集合写真(昭和初期)。後列左から4人目が太柏

「杉並区市制記念 武蔵野風景作画頒布会」(1932)にあたっての太柏自筆「作者言」

「杉並区市制記念 武蔵野風景作画頒布会」(1932)にあたっての太柏自筆「作者言」

茶人、陶芸家、歌人としての太柏

太柏は画業以外にも、茶道に本格的に取り組んだほか、作陶を学んだり、短歌を作ったりと、多彩な才能を発揮した。
茶道を始めた時期は不明だが、上京の折に野点(※12)の道具一式を持参している。1951(昭和26)年には家元として「日本茶道院」を設立。天沼の自宅に茶室や茶庭を設け、建設や造園に関して自ら指導した。故郷の山形でも、庵(いおり)の建築や造園などに携わっている。
作陶は、太柏の画業を高く評価していた有島武郎を介して、バーナード・リーチ(※13)や富本憲吉(※14)と交流しながら、濱田庄司(※15)の窯で本格的に学んだ。また、歌人として短歌もつくっており、昭和初期に与謝野晶子、尾上柴舟(※16)ら10名の審査委員が編さんした『新万葉集』に、太柏の短歌が3首採用されている。
企画展「石山太柏 武蔵野の風景画人と杉並」では、「茶や歌など、画業とは異なる文芸創作の活動を通じて培われた感覚や人脈は、新しい芸術に深化させる上で、大きな役割を果たしていた」と指摘している。

※12 野点(のだて):野外で茶をたてること
※13 バーナード・リーチ:1887-1979。イギリス人の陶芸家。画家、デザイナーとしても知られる。日本をたびたび訪問し、有島武郎の白樺派や民芸運動の関係者と深く交友
※14 富本憲吉(とみもと けんきち):1886-1963。陶芸家。バーナード・リーチと交友があった
※15 濱田庄司(はまだ しょうじ):1894-1978。陶芸家。柳宗悦(むねよし)とともに民芸運動を推進
※16 尾上柴舟(おのえ さいしゅう):1876-1957。詩人、歌人、書家、国文学者。太柏の後援者でもあった

天沼・石山邸「休々窟(きゅうきゅうくつ)」の庭先から茶室を見る

天沼・石山邸「休々窟(きゅうきゅうくつ)」の庭先から茶室を見る

太柏が建築・造園に携わった山形県赤倉温泉阿部旅館「観山亭」

太柏が建築・造園に携わった山形県赤倉温泉阿部旅館「観山亭」

山形県上山市にある「春雨庵(はるさめあん)」。沢庵(たくあん)禅師が仮居したといわれる庵の復元を担当した

山形県上山市にある「春雨庵(はるさめあん)」。沢庵(たくあん)禅師が仮居したといわれる庵の復元を担当した

忘れられていた日本画の達人

太柏の自邸とアトリエがあった場所は、現在の杉並区立郷土博物館分館の近くで、「石山太柏 武蔵野の風景画人と杉並」展を担当した学芸員の山田さんはそのことに縁を感じ、太柏単独の企画展の開催を目指したという。だが、太柏についての研究が進んでおらず、参考となる客観的な資料も乏しかった。そのため、太柏が活動していた時期の新聞記事や美術雑誌などを丹念に調べ、どういう評価がされていたのかを少しずつ解明していったそうだ。企画展では、1959(昭和34)年に山形の個展に出品された「早春の高井戸風景」「秋立つ朝」「初冬の武蔵野」「朝靄の荻窪田甫」が約60年ぶりに登場したほか、初公開の貴重な作品も数多くそろい、鑑賞に訪れた人の目を楽しませていた。
何度も官展や院展に入選した実力ある画家であるにもかかわらず、なぜ太柏は日の目を浴びることがなかったのだろうか? その理由として山田さんは、「太柏が当時の画壇の派閥的な雰囲気を好まず、画塾や美術団体と距離を置いたこと、また太柏の作品をまとめて所蔵している機関がなかったため、死後久しく忘れられてしまったのではないか」と指摘する。また「太柏という素晴らしい画家が杉並にいたことを知っていただき、興味を持ってもらえるとうれしいです」と話す。

石山太柏 プロフィール
本名・石山徳一郎。1893(明治26)年、山形県北村山郡(現東根市大字島大堀)に生まれる。15歳の時に日本画家・柏倉雪章に内弟子として入門、日本画を学ぶ。
1915年 第1回日本美術院習作展覧会入選
1919年 第1回個展を開催(東京美術学校倶楽部)
1921年 「石山太柏後援画会」発足(発起人:有島武郎他2名)
1933年 「市制記念 武蔵野風景作画頒布会」を開催
1935年 日本美術院を脱退
1938年 後援会「柏翠会」設立
1951年 「日本茶道院」を設立
1959年 最後となる個展を開催(山形市物産館)
1961年 風邪から肺炎・心筋梗塞を発症、1月17日没(享年67歳)

杉並で暮らしていた篆刻(てんこく)家・山田正平による太柏の印譜

杉並で暮らしていた篆刻(てんこく)家・山田正平による太柏の印譜

太柏愛用の絵具箱に納められたカラフルな岩絵具

太柏愛用の絵具箱に納められたカラフルな岩絵具

短冊箱。蓋裏「夏虫」・蓋表「露草」

短冊箱。蓋裏「夏虫」・蓋表「露草」

DATA

  • 出典・参考文献:

    平成30年度企画展『石山太柏 武蔵野の風景画人と杉並』展示図録

    協力・監修:杉並区立郷土博物館分館 山田兼一郎

  • 取材:矢野ふじね
  • 撮影:写真提供:杉並区立郷土博物館分館
  • 掲載日:2019年01月28日