佐藤ヒロオさんは、1997(平成9)年からライブハウス「荻窪ルースター」を経営している。著書『荻窪ルースター物語(ライブハウスのつくりかた)』から想像されるイメージは、イケイケのオーナー兼ミュージシャン。だが取材の場には、どうしたら多くの人に素晴らしい音楽を届けることができるのか、楽しんでもらえるのかと、常に考え続ける勉強家の姿があった。
▼関連情報
荻窪ルースター 本店(外部リンク)
昭和50年代から平成初期は「ベストヒットUSA」など深夜放送の音楽番組が人気を博しており、ミュージシャンを目指す若者の活躍を目にする機会も多かった。そんな時期に多感な高校時代を過ごした佐藤さんは、学園祭で、自分自身まだ行ったことがなかったライブハウスを主催し、参加した演奏者や観客から好評を得た。「音楽は好きだったけど、どうも自分は主役じゃないことにその頃から気付いていた」と言う。しかし何かしら音楽に関わっていたいと、学園祭で大いに楽しんだライブハウスの経営を、漠然とだが目指すようになる。
大学卒業後、広告代理店でコピーライターとして働きつつも、ライブハウス経営の夢はあきらめなかった。そこで、開業資⾦を得るため⾃動⾞メーカーに転職し、ハードワークをこなしながら、ついに1997(平成9)年、念願の「荻窪ルースター」オープンに至った。だが、「今思えば、当時は開店すること自体が⽬標で、その先を考えていなかった」と話す。そのせいか開店当初は経営に苦戦し、初めて来た客が「なんだかつまらない」と帰ってしまうこともあった。
みんなが楽しめるライブハウスとはどういうものか、一人でも気軽に来てもらうようにするにはどうしたら良いのか。佐藤さんが出した答えは、ライブハウスという器ごとエンターテインメントにすることと、来店客に楽しんでもらうための技を自ら身に付けることだった。
人気のテーマパークやお笑いのステージに出掛けては、話術やもてなしテクニックを片っ端から学んだ。もともと好奇心旺盛だったので、乾いた砂漠に雨が染み込むように猛烈なスピードで吸収していったという。
以来、ライブ演奏前に担当する前説も工夫している。「タバコはお吸いいただいても結構ですが、お吐きにならないでださい」、そんなセリフに客が笑い、会場の雰囲気が和む。「来場客が心を開いた状態なら、なじみのないミュージシャンの演奏でも素直に楽しんでもらえる。ライブハウスは音楽を楽しめる場であることが大切だ」と佐藤さんは考えている。
2005(平成17)年には、本店と同じ荻窪に2号店の「ルースター・ノースサイド」を開業した。
▼関連情報
ルースター・ノースサイド(外部リンク)
佐藤さんはライブハウスと音楽について3つの夢を持っている。
1つ⽬は、外国⼈も気軽にドアをオープンできる店にすること。都内のコーヒーショップで、店員が外国⼈客にそれぞれの⾔語で対応する姿を見て、「荻窪ルースター」もそんな店にしたいと思っている。「ホテルのフロントマンが外国人客からライブが楽しめる店を尋ねられた時に、“荻窪ルースターがあるよ”と⾃信を持って案内してもらえる店になりたいですね」
2つ⽬は、200⼈ほど⼊れるチャージ無しのライブハウスを新たに作ること。かつてジャズの本場アメリカ・ニューオリンズで経験した、⾳楽を⽣で聴くことがごく普通であたりまえの生活を、荻窪で実現したいと考えている。
3つ⽬は、多くの⼈に「荻窪に⾏こう」と⾔わせること。「荻窪にも音楽イベントがありますが、その場限りのイベントではあくる日にはいつもの街に戻ってしまう。いつでも楽しく、ライブで⾳楽が聴ける環境を作りたい」。そして、荻窪の魅⼒を伝えていくことで、⾳楽ファンばかりでなくあらゆる人にとって、荻窪を行ってみたい街、メジャーな街にしたいと願っているそうだ。
きっとその3つが叶っても、「もっと皆にいい⾳楽を」という思いがある限り、佐藤さんの夢はこれからも続いていくに違いない。
取材を終えて
佐藤さんのフェイスブック⾃⼰紹介覧には、好きな⾔葉として「そんなことが可能姉妹でしょうか」とある。ちょっとふざけた⾔葉かもしれないが、夢にチャレンジすることへの期待と不安が⼊り混じった気持ちが込められているように感じた。「佐藤さんならきっと可能治五郎ですよ」とエールを込めて声をかけたくなる場がそこにあった。
佐藤ヒロオ プロフィール
1962年、 新潟生まれ東京育ち。ライブハウス「荻窪ルースター」のオーナー兼店長。店では「ぶちかま志郎」と名乗り、主に1970~90年代の歌謡曲や懐かしい洋楽を演奏する「鶏さまKINGS」のバンドマスターとしてベースを担当。
著書に『荻窪ルースター物語(ライブハウスのつくりかた)』『ライブハウスオーナーが教える絶対盛り上がるライブステージング術』(いずれもポット出版)がある。