木山捷平(きやま しょうへい)さんの28歳から64歳にかけての日記を再編集した本。日記は、1932(昭和7)年1月1日に始まり、1968(昭和43)年8月23日まで36年間に及ぶ。木山さんは岡山出身の小説家で、上京以降の大半を杉並で過ごし、作家たちとの交流もあった。日々の出来事を記した備忘録に近いものだが、これだけ長期間にわたる作家の日記の本は、あまり例がない。1968(昭和43)年に入院し、病状が悪化した後は、木山さんの口述を、妻・木山みさをさんが筆記をしている。そのような状況でも日記を書き続けた営みは、そのまま、困難な生活状況でも『耳学問』『大陸の細道』『長春五馬路』など数々の名作を発表し続けた木山さんの生涯を思わせる。
日記には、政治、社会、経済や、時事的な話題について新聞記事を抜き書きし、感想が添えられている箇所もある(※1)。作品はユーモアとペーソス(※2)あふれ、飄々(ひょうひょう)とした人柄を感じさせる木山さんだが、戦前、戦中、戦後と時代が変わっても、文学に対する考え方、生きていく上での信条、変わらないかたくなさがあったことが伝わってくる。
表題の由来について、木山みさをさんは「酒をのむ記事が多く、つまり『酔いざめ日記』となりました」と、あとがきで記している。日記を書いて酔いざめしていた木山さんの姿がまぶたに浮かぶ。
木山さんは上京以降、生涯を中央線沿線で暮らした。杉並では高円寺、阿佐ケ谷、西荻窪、荻窪の順に移り住み、暮らした期間も長い。日記には、仕事のこと、友人や知人との付き合い、家族のことなど、杉並での生活の記載もあり、杉並の庶民史としても読むことができる。
また、文学仲間との頻繁な行き来の記載も多い。詩人として創作活動を開始した頃からの知人や、同人誌仲間など、数多くの作家が登場。特に、阿佐ヶ谷会(※3)についての話題は30カ所以上に及び、会の開催場所や、幹事名、参加した人名、将棋の対戦成績、二次会、三次会のことまで詳しく記されている。
※1 杉並で起きた事柄では、小林多喜二さんの亡骸が馬橋の家に戻ったことについて(昭和8年2月21日の日記)、河上肇さんが出獄し天沼の家に戻ったことついて(昭和12年6月15日の日記)は、新聞記事の抜き書きに加え、自身の考えも含め、長文になっている。
※2 ペーソス:哀愁、哀感
※3 阿佐ヶ谷会:中央線沿線の作家たちの親睦会。主なメンバーは、井伏鱒二、青柳瑞穂、太宰治、木山捷平、外村繁、小田嶽夫、河盛好蔵など