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「杉並町報」で知る昭和4年の杉並①

大正~昭和初期の杉並のニュースを伝える情報紙

「杉並町報」は、新聞記者・南雲武門(なぐも たけかど)氏が1925(大正14)年に創刊した地域情報新聞である。当時、現在の杉並区にあたる地域には、杉並町・和田堀内村・井荻村・高井戸村があり(地図参照)、「杉並町報」は主に杉並町の話題を掲載していた。また、1929(昭和4)年からは4面中の第3面に「井荻高井戸版」が新設された。
記事の内容は、町内で起きた窃盗や火災、事故などのニュースのほか、町民の出生と死亡、小学校の行事、懸賞の当選者発表など身近なトピックまで多岐に渡る。また、地元の商店や医院など、さまざまな広告も掲載されている。
この記事では、コピーが残る1929(昭和4)年1月10日号~10月19日号のうち一部を取り上げ、記事からうかがえる昭和初期の杉並の様子や人々の暮らしぶりを紹介する。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 ゆかりの人々>知られざる偉人>南雲武門さん

「杉並町報」のコピー

「杉並町報」のコピー

1925(大正14)年の地図

1925(大正14)年の地図

増築工事に幸福なる 第五校の児童たち
1929(昭和4)年1月20日の新聞から転載

陰で尽力する理事者
 町立小学校の新増築工事は、昨冬来一斉に着手されて目下着々進行中であるが、新学年迄には各校共充分とは行かぬが収容力の充実した小学校が完成されることであらう
 併し各校共色々の都合上すでに二部教授を行ひ教授上の不便一方ならぬ様子である。
 第五校は校庭東脇梶並氏の工場(二教室)を借りてあつた為め、この暮迄は二部教授を免れて居たのがいよいよ工事が始つて従来の平屋校舎を二階建に改造する為六ヶ学級の児童が学習場を失つて二部、三部教授を行つても追つかなくなつたが後援会々長森田豊太郎氏の尽力により日本大学第二中学校の三教室を都合して貰ひ三四五の男三組が其所に収容されて学習している、日大二中では同校児童の為わざわざ昇降口を改造し職員室の一部を貸興したり北側の校庭全部を開放する等万全の便宜を興へて居る
 町理事者もその校庭に石炭ガラを敷き、屋外便所の設置をしてやる等の事は実に近来の美学であつて二部教授は僅かに一二学年に若干行ふだけで通せる事は幸福な事と云はねばならぬ
 同校職員諸氏は此の御恩に報ゆる為特に意を用ひて児童の訓練学習に大童となりつつあり
 尚校庭脇梶並氏の工場を用ひてる二教室は土間であつたのを衛生上を憂へ床板を張る等暖房装置を完全にした

1931(昭和6)年の杉並町立杉並第五尋常小学校(出典:『杉五 八十年のあゆみ 開校80周年記念誌』)

1931(昭和6)年の杉並町立杉並第五尋常小学校(出典:『杉五 八十年のあゆみ 開校80周年記念誌』)

増築ラッシュだった杉並の尋常小学校

1929(昭和4)年1月、杉並町には杉並第一・第二・第三・第四・第五・第六、計6つの尋常小学校があり、児童数増加のため新増築工事を行っていた。杉並第六小学校のホームページの沿革にも「昭和4年 児童がふえ増築工事が続く」との記述がある。各校は工事が終わるまで、児童を午前と午後に入れ替える二部授業などを行って対処していた。
かつて天沼にあった第五小学校(※)も二部・三部授業をしていたが、それでも追いつかず、近隣の工場に加え日本大学第二中学校の一部を借りたようだ。その際、日大二中側が昇降口を改造したり、校庭を開放したりと、親切に協力していた様子が読み取れる。「石炭ガラを敷き、屋外便所を設置」とあるのは、石炭灰が今も消臭剤に使われているように、消臭効果を期待してのことであろうか?また、文中の「男三組」という言葉から、戦前は男女が別々に学んでいたことに気づかされた。
『杉五 八十年のあゆみ 開校80周年記念誌』によると、この工事は3月に終わったが、4月に新入生168名が入学すると、たちまち満杯になったという。その後も天沼の人口増加に伴い児童がますます増え、1932(昭和7)年、1938(昭和13)年~1939(昭和14)年にも増築工事が行われた。

※2008(平成20)年、杉並第五小学校と若杉小学校が統合して区立天沼小学校が開校

「校舎配置図(昭和14年)」。増築を繰り返したことがわかる(出典:『杉五 八十年のあゆみ 開校80周年記念誌』)

「校舎配置図(昭和14年)」。増築を繰り返したことがわかる(出典:『杉五 八十年のあゆみ 開校80周年記念誌』)

DATA

  • 出典・参考文献:

    『杉五 八十年のあゆみ 開校80周年記念誌』杉並区立第五小学校開校80周年記念事業実行委員会

  • 取材:小泉ステファニー
    初回公開日:2021年02月22日
  • 掲載日:2021年09月27日