今と昔の物語
今や天沼の発展振りは素晴らしいもので毎月新築さるる家屋の如きは六大字(※1)中第一位に位することであらう。
杉並警察署管内に於ては毎月約三百戸の新築があると云ふが、我が天沼は三月中実に六十六棟の新築があつたから驚かざるを得ない。
(中略)
気澄み水清き 本町最高の地
天沼は本町に於て最も高台に位し、気澄み水清き住宅地としての理想境である。
本町の高度は海抜百十尺から百五十尺の間を出入してゐるが、天沼熊野神社附近は最高の一四九尺八二の高度を保つてゐる
最近の天沼
最近の天沼は前述の通り今や戸数一千八百、人口約九千人の一大住宅地である杉並に於ける最大幅員道路青梅街道は其の南を通り、四間の府道北部を貫通し又幾多の小道路網をなし、淋しい地とされてゐた北部に堂々たる同潤会の建物がたち既でに人が住つてゐる。又日本大学第二中学、城右高等女学校の二中等学校を有するのも天沼の誇りである。吾人は斯く発展の予測し難い住宅地と其の近隣に下記の著名営業者のあることを紹介し営業者住民相互扶助益々天沼の大ならんことを望んで擱筆する。
(後略)
記事によると、天沼は江戸期、「民家77軒」であったが、大正末期になると戸数・人口が急増している。1923(大正12)年の関東大震災後に、都心部の被災者が郊外の杉並に移入してきたからだと推測される。
それまでは「住宅は高円寺阿佐谷を中心とせる台地が最も稠密(ちゅうみつ)」(『杉並町郷土誌』)であったため、比較的余地があった天沼に人が流れたのだろう。1927(昭和2)年には荻窪駅北口もでき、駅北側の宅地化がますます進んだ。
天沼は武蔵野台地に位置し、妙正寺川と旧桃園川に挟まれた高台となっている(図2参照)。その恵まれた地勢で、まさに「気澄み水清き住宅地としての理想郷」であったといえよう。大正末期に設立された学校も数校あり、人が増えれば商店も増えるという好循環を繰り返しながら発展していったと思われる。
記事で紹介されている優良商店のその後をたどったところ、「浅倉商店」は平成20年代末まで、「御菓子司 青柳」は平成の中頃まで営業していたことがわかった。
また、太宰治もひいきにしていたという「小澤パン店」は、業態を変え、現在は「フィッシングショップ株式会社照楽園」として杉並公会堂近くに店舗を構えている。「小澤パン店」初代店主の孫・小澤忠弘代表によれば、「照楽園」は戦後「小澤パン店」の分業で盆栽を扱う店として開業。その後、移転や一部の業態譲渡を経て、釣具専門店となったそうだ。
▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 ゆかりの人々>杉並の文士たち>太宰治さん
すぎなみ学倶楽部 歴史>杉並名品復活プロジェクト>太宰治の愛した「ステッキパン」
すぎなみ学倶楽部 歴史>杉並名品復活プロジェクト>続 太宰治の愛した「ステッキパン」
フィッシングショップ照楽園(外部リンク)
文中の「同潤会の建物」とは、同潤会(※2)が建設した木造住宅で、杉並区には、仮住宅、普通住宅、勤め人向け分譲住宅が合計5カ所に建設された。記事に書かれているのは、1929(昭和4)年に竣工(しゅんこう)した天沼の阿佐ヶ谷住宅と荻窪住宅(いずれも勤め人向け分譲住宅)のことである(図1参照)。阿佐ヶ谷住宅は計22戸(2階建て4戸、平屋18戸)、荻窪住宅は計45戸(2階建て2戸、平屋43戸)で、荻窪住宅にはテニスコートもあったという。「淋しい地とされてゐた北部」に、これだけの新築住宅が立ち並んだ姿はさぞかし壮観だったことだろう。
『昭和四年度事業報告』によると、販売に際して行われた荻窪住宅の展覧会には、4日間で8,777人が訪れるほど「非常ナル好評」で、抽選倍率は25倍だったそうだ。
※1 六大字:杉並町の6大字(天沼、阿佐ヶ谷、馬橋、高円寺、田端、成宗)
※2 同潤会:1924(大正13)年、関東大震災の被災者用住宅供給を目的に設立された内務省の外郭団体
『杉並町郷土誌』矢田部利夫(杉並第七尋常小学校地理研究部)
『新天沼・杉五物がたり 付荻窪物語』杉並第五小学校創立七十周年記念事業実行委員会
『昭和四年度事業報告』(同潤会)
『同潤会十年史』(同潤会)
「同潤会の独立木造分譲住宅事業に関する基礎的研究」内田青蔵、安野彰、窪田美穂子
「番地入最新杉並町全図」(日本地理付図研究所)
「杉並(天沼・本天沼地区)三世代遊び場マップ 昭和初期」杉並子どもの遊びと街を考える会