太宰治(だざいおさむ)は20代を過ごした杉並時代に、初期の珠玉の作品の数々を執筆、太宰文学の基本型をつくりあげた。
のちに太宰治は以下のように記している。
「私は、この四五年のあいだ既に、ただの小説を七篇(※1)も発表している。ただとは、無銭の謂(い)いである。けれどもこの七篇はそれぞれ、私の生涯の小説の見本の役目をなした。」(『もの思う葦』より)
「それで自分も文壇生活といふか、小説を書いて或るいは生活ができるのではないかしらとかすかな希望をもつようになりました。それは大體年代からいふと昭和十年頃です。」(『わが半生を語る』より)
しかし、杉並時代の太宰治の記録は少なく謎に満ちている。そうした状況の中、長年、太宰治について杉並時代を中心に研究、執筆、講演を続けている萩原茂(はぎわらしげる)さんに話を伺った。萩原さんは杉並に住んで30年余り、杉並を仲介に、読者と太宰治をつなぐ作業を試みている。太宰ファンで太宰治の研究をしている萩原さん、その話は熱気を帯びたものとなった。
※注釈は記事最後に記載
「津島修治が初めて太宰治の筆名を使ったのは、荻窪へ転居してきたのとほぼ同時期ですから、太宰の作家生活は荻窪でスタートしたのです。」と、萩原さん。
太宰治は、船橋時代を挟んで二度、杉並区天沼で暮らした。1933(昭和8)年2月、天沼へ転居。同人誌に次々と作品を発表(※2)し、『ロマネスク』『逆行』で脚光を浴びる(※3)。また、師事した井伏鱒二(※4)をはじめ先輩や同世代の友人との人間関係を広げた(※5)。郷里、津軽の先輩、飛島定城(※6)一家と小山初代(※7)ともども同居生活だった。だが、大学卒業時を控え自殺未遂、次いで盲腸手術後の鎮痛剤の多用から薬物中毒に陥る。船橋での療養ののち、精神科病院入院に至るが、この間も『道化の華』など意欲作を発表し続けた。退院後、天沼に戻り、碧雲荘(※8)で『HUMAN LOST』を発表。この頃に発足した阿佐ヶ谷会(※9)に頻繁に出席する。しかし、小山初代との結婚生活が破綻し、近くの下宿屋鎌滝に移る。そこで作風の転機となる作品『満願』を発表。1938(昭和13)年9月、太宰治は下宿屋鎌滝を引き払い、井伏鱒二が滞在していた山梨県南都留郡川口村御坂峠の天下茶屋に行き、杉並時代に終止符を打つ(※10)。
萩原さんは、沈黙期といわれる下宿屋鎌滝時代について、従来の見方とは異なる説を発表している。「この時期、鎌滝には何人かが居候していて(※11)、デカダンス(虚無的・退廃的)な生活を送っており、文学的にも困難が生じていた沈黙期といわれています。でも、頻繁に出入りしていた塩月赳(しおつきたけし)の日記などを読むと、太宰は集まりに参加したり、映画を見たり、活発に動いている。作品が少ないといっても、発表に至らなかったものも含め書いている。青春という季節の中でもがいていただけで、次のステップへの準備をしていたのです。沈黙期ではなく胎動期ですね。」
さらに萩原さんは、デガダンスなイメージは後に発表した自伝的小説、『東京八景』の太宰治自身の脚色した記述が影響していると指摘する。「太宰は虚構世界をつくりあげ、そこから作品にどんどんもってくる。虚構世界の太宰が太宰に語らせている。日常を書いているようで日常でない。私小説ではない。だから、日常におとしめてはだめなんです。かといって雲上人に祭り上げるのもだめ。その中間くらいで、作品を通してみる場合は、日常のようで日常じゃないあたりでみることです。」
※各注釈は記事最後に記載
太宰治には、杉並時代の経験をにおわす作品も多い(※12)。しかしそれは、必ずしも実際にあったことばかりではない。また太宰治は、その生涯における数々のスキャンダルをもって語られることも多く、そのことが逆に太宰治をみえにくくしている。「戦後の一時期はたしかにデカダンスでしたが、荻窪時代は違う。それに、よくいわれる酒、薬、女…、ふつうはそれで終わっちゃうけれど、太宰は書き続けた。数々の女性関係にしても、互いの愛があったわけでしょ。凡人の尺度で測ってはだめ、スキャンダルから入ってはだめですよ。」杉並時代の太宰治について、萩原さんは言い切る。「太宰は古今東西の書物を読み、よく勉強している。津軽の実家からの仕送りを受けていたから背水の陣ではないが、あえてはみ出すけど社会に出ようと必死に努力もしている。書くことへの情熱、真摯な姿勢は一貫して変わらない。鎌滝時代は作品が少ないといわれるけれど、単行本を二冊刊行し、作品をほぼひと月に一回は発表していますから、けっして少なくないですよ(※13)。自堕落でも停滞していたわけでもない。好青年ですよ。そういうリアルタイムな太宰をみることです。まだ何者にもなっていない太宰、夢に向かっていた太宰。『斜陽』でも『人間失格』でもない太宰。そんな、青年太宰にスポットを浴びせたいですね。」
※各注釈は記事最後に記載
太宰文学は、杉並に端を発し、現在も読者を惹(ひ)き付けてやまない。なぜだろうか。
「太宰は、太宰が生きた時代のひとたちの″私のこと″、″私の立場″、を書きました。その内容が、現代のひとたちの″私のこと″、″私の立場″と相通じる、普遍性をもっているからです。」と、萩原さん。
さらに萩原さんは、太宰治独特の表現方法に注目している。
「読者の心をつかむ書き出しと、読者に直接語りかけるような、太宰独特の文体です。たとえば、『葉』の「撰(えら)ばれてあることの 恍惚(こうこつ)と不安と 二つわれにあり」(※14)、『女生徒』の「あさ、眼をさますときの気持ちは、面白い」、『駆け込み訴え』の「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷(ひど)い。酷い」のように。“このひとはなんて私のことをわかってくれるんだろう、私の立場を理解してくれるんだろう” と、自分だけに語りかけられているように読者は思い、ますます惹き付けられるのです。」
太宰文学の魅力に触れれば触れるほど、その形成期、太宰治の杉並時代は注目される。また、太宰治は、杉並区が誕生した直後に続々と移り住んできたひとたちの一人でもある(※15)。青年太宰治をみつけることは、当時、杉並で暮らした、ことに青年たちをみつけることでもある。杉並に暮らすわたしたちだからからこそみえてくる太宰治、みつけなくてははならない太宰治は、まだまだたくさんありそうだ。
※各注釈は記事最後に記載
PDF:「無名の若者は荻窪で作家となった 太宰治」萩原茂(杉並区立阿佐谷図書館『 あさがや楽(がく)』第3号(平成28年)所収)(1.3 MB )
1909(明治42)年-1948(昭和23)年
本名 津島 修治。小説家。青森県金木村(現・五所川原市金木町)生まれ。弘前高等学校卒、東大仏文科中退。代表作に『走れメロス』『津軽』『斜陽』『人間失格』など。鮮烈、斬新な作風で作家デビュー当時から根強い支持を集めた。1947年、『斜陽』が大ベストセラーになり流行作家となる。無頼派と称され、さらなる活躍が期待された矢先、1948年に玉川上水で入水自殺をした。。三鷹町下連雀禅林寺に埋葬される。没後、その作品は一層評価され、読み継がれている。
萩原茂プロフィール
早稲田大学第一文学部卒業、同大学専攻科終了。近代文学専攻。阿佐谷図書館や与謝野晶子サロン(南荻窪)で連続講演を行っている。主な著書は『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』(共著)『太宰萌え 入門者のための文学ガイドブック』(共著)など。近著に、雑誌に連載中の児童文学の書評をまとめた『名作への架け橋−小学生の読書案内』(みくに出版)がある。詩も発表している。
※記事内、故人は敬称略
※1 七篇(ななへん):「したがって「七篇」は、「魚服記」「思ひ出」「葉」「猿面冠者」「彼は昔の彼ならず」「ロマネスク」の六篇と、「洋之介の気焔」か「道化の華」か、ということになる。あるいは、昭和7、8年ごろの執筆になるとされる数編のうちの一編、ということになる。」(『太宰治研究』(教育出版センター)より)という指摘がある
※2 太宰治は杉並時代、『海豹』『鷭』『世紀』『青い花』『日本浪曼派』『作品』と同人誌に次々と作品を発表した
※3 『ロマネスク』は太宰治自らが主宰した同人誌『青い花』に掲載され、『早稲田文学』誌上で尾崎一雄の絶賛をうけた。『逆行』は初めて一般の文芸誌『文藝』に掲載され、第一回芥川賞の候補作となった
※4 井伏鱒二(いぶせますじ):『山椒魚』『ジョン万次郎漂流記』『黒い雨』など、数々の名作で知られる小説家。作家生活のスタート時より生涯を杉並区清水で過ごした。太宰治は弘前高等学校時代、『山椒魚』に感動し、自ら主宰していた同人誌への寄稿を依頼した。その縁で、上京後すぐに訪問し師事した。以降、井伏鱒二は文学の師であるだけでなく、お目付け役の役割も担うことになる
※5 さまざまな会合、同人誌活動を通じ人脈をつくり、また、檀一雄、伊馬春部、山岸外史、亀井勝一郎といった同世代の生涯にわたる友人たちを得た
※6 飛島定城(とびしまていじょう):太宰治の弘前高等学校の先輩。当時、東京日日新聞の社会部記者をしていた。太宰治は小山初代とともに、港区白金三光町で飛島一家と同居。ともに杉並区天沼に転居してきた
※7 小山初代:弘前のもと芸妓。太宰治は弘前高等学校時代に初代と出会い、上京後、強引に東京に呼び寄せた。非合法共産党のシンパ活動時代の太宰治、薬物中毒に苦しみ精神科病院入院に至った太宰治、作家をめざして悪戦苦闘する太宰治とともに生きた女性
※8 碧雲荘(へきうんそう):太宰治が二度目の天沼時代住んだ、昭和初期の木造二階建て日本家屋。太宰治ゆかりの建造物では、生家を保存した五所川原市金木町の斜陽館以外では、唯一現存する建造物。2016(平成18)年2月、杉並区から大分県由布市へ移築されることが決まった。
※9 阿佐ヶ谷会:中央線沿線の作家たちの親睦会。太宰治は井伏鱒二の紹介で参加するようになった。戦時中に一時中断したが、戦後再開された。主なメンバーは、井伏鱒二、青柳瑞穂、木山捷平、外村繁、小田嶽夫、河盛好蔵など
※10 この後、井伏鱒二の仲介で石原美知子と再婚。甲府市西堅、御崎での新婚時代を経て再び東京へ戻ってくる。新居として荻窪あたりを探すがうまくいかず、三鷹村下連雀に落ち着き、三鷹が終世の地となる。引越し魔といわれた太宰治だが、住み慣れた中央線沿線を離れることはなかった。太宰治は典型的な中央線沿線族である。太宰文学の故郷は津軽だが育ったのは中央線沿線。杉並、三鷹それぞれに、かつトータルに太宰治に迫れば、中央線沿線族としての太宰治の実像もみえてくるのではないだろうか
※11 下宿屋鎌滝に居候していたのは、主に緑川貢、塩月赳、長尾良、山岸外史などの文学仲間。緑川、塩月、長尾は同じく荻窪に住んでいた
※12 太宰治が杉並区内の地名を具体的に使用した作品は、『創生記』(高円寺)『犯人』(高円寺)『人間失格』(高円寺)『未帰還の友に』(阿佐谷)『服装に就いて』(阿佐谷)『花吹雪』(阿佐谷)『不審庵』(阿佐谷)『二十世紀旗手』(荻窪)『姥捨』(荻窪)『俗天使』(荻窪)『東京八景』(荻窪)『狂言の神』(荻窪)『喝采』(荻窪)『斜陽』(荻窪、阿佐谷、西荻窪)など多数
※13 杉並時代に刊行された太宰治の単行本は『虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ』(新潮社 1937(昭和12)年)『二十世紀旗手』(版画荘 1937(昭和12)年)
※14 同人誌『鷭』に発表した『葉』の書き出しの一節。太宰治は、『葉』では、書き出しに愛誦するヴェルレーヌの詩の引用を用いた。「恍惚と不安」は、以後、太宰治の代名詞となる
※15 1930(昭和5)年から十年の間に杉並地域の人口は5万5692人増加した(増加率40.41%)。荻窪駅周辺では、1927 (昭和2)年、駅北口が開設。商店の増加に伴い、1928 (昭和3)年北口通り商工会が設立された。杉並区が誕生したのは、太宰治が天沼に転居してくる前の年、1932(昭和7)年のことだった。当時の世相では、プロレタリア文学作家で杉並区馬橋に住んでいた小林多喜二が特高警察の拷問により殺された1933(昭和8年)の事件、杉並の地も巻き込んだ青年将校たちのクーデター未遂事件、1936(昭和11)年の二・二六事件などがある
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『小説太宰治』檀一雄著(岩波書店)
『櫻桃の記』伊馬春部著(中央公論社)
『人間太宰治』山岸外史著(筑摩書房)
『愛と苦悩の手紙』亀井勝一郎編(角川書店)
『太宰治』井伏鱒二著(筑摩書房)
『太宰治と私―激浪の青春』石上玄一郎(集英社)
『太宰治 水上心中』長篠康一郎著(広論社)
『太宰治 羞らえる狂言師』無頼文学研究会編(教育出版センター)
『恍惚と不安 太宰治 昭和十一年』奥野健男編(養神書院)
『昭和十年前後の太宰治』松本和也著(ひつじ書房)
『誰も知らない太宰治』飛島蓉子著(朝日新聞出版)
『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』青柳いづみこ・川本三郎監修(幻戯書房)
『太宰萌え 入門者のための文学ガイドブック』岡崎武志監修(毎日新聞社)
『図説 太宰治』日本近代文学館編(筑摩書房)
『新潮日本文学アルバム 太宰治』(新潮社)
『新修杉並区史』(杉並区役所)
『荻窪の今昔と商店街之変遷』矢嶋又次著
「太宰治 青春の終焉〜無名の若者は荻窪で作家になった〜」萩原茂(吉祥女子中学・高等学校『研究誌』第42号(平成22年)所収)
「無名の若者は荻窪で作家となった 太宰治」萩原茂(杉並区立阿佐谷図書館『 あさがや楽(がく)』第3号(平成28年)所収)