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ダンディ坂野さん

一発屋と呼ばれて20年。歌って踊れる芸人として進化中!

2003(平成15)年に「ゲッツ!」で大ブレイクし、同年の新語・流行語大賞にもノミネートされた、お笑い芸人ダンディ坂野さん。実は、その10年も前から杉並に住み、阿佐ケ谷駅前のマクドナルドでアルバイトをしながら芸能活動をしていた。ブレイクして間もなく一発屋と呼ばれるようになったが、仕事が途切れたことはないという。2020 (令和2)年からはYouTube(ユーチューブ)に自身の音楽チャンネルを持ち、自作の歌やカバー曲を披露している。
普段の暮らしぶりや仕事に対する思い、今後の展望などについて話を伺った。

「ゲッツ!」をきめるダンディ坂野さん

「ゲッツ!」をきめるダンディ坂野さん

上京以来、ずっと杉並暮らしです

僕が「杉並」という地名を初めて意識したのは、中学生の時に聴いていたラジオのお便りコーナーでした。パーソナリティーが「東京都杉並区にお住まいの○○さんからのリクエストで…」なんて言うのを聞いていて、なんとなくいいなと思ったんです。自分も東京に住みたいと思っていたから、「住むなら杉並区」みたいな感覚がありました。
それから10年以上経って、芸人になるために東京に出てきたのですが、お笑いの養成所が東高円寺にあったので、本当に杉並に住むことになりました。その後30年、区内で5回引っ越しましたが、阿佐谷が一番長かったです。体型維持のため週に数回走っているのですが、そのコースの終点が阿佐谷パールセンターです。駅前の噴水のある広場も、品があって好きですね。ハトがいたりして穏やかな気持ちになります。

阿佐ケ谷駅南口にある阿佐谷パールセンター商店街

阿佐ケ谷駅南口にある阿佐谷パールセンター商店街

杉並は、飲食店も充実しているところが好き

飲食店で思い出深いのは、西荻窪駅のすぐ近くにある「やきとり戎(えびす)」。ひいきの野球チームが優勝した時は、ここでバイト仲間と祝杯を挙げました。焼き鳥といえば、もう1軒。荻窪駅北口階段のすぐ横にあった「鳥もと」。朝から煙をもくもく出して、駅のホームまで来ていましたね。駅前整備で裏路地に移転したから、煙はもう見られなくなっちゃったけど、あの煙は豪快でした。
好きな食べ物はラーメンと、タイ料理のプーパッポンカリー(カニの卵とじカレー炒め)です。自分の中では、ラーメンを食べるなら荻窪、プーパッポンカリーを食べるなら阿佐谷です。自転車に乗ってわざわざ食べに行くんですよ。

 

移転後の「鳥もと本店」

移転後の「鳥もと本店」

こう見えても、普段は健康的な食生活をしています

いかにも不健康そうな食生活を送っているように見えるでしょう?昼食は麺類が多いですが、朝と夜は結構きちんとした食事をしているんですよ。朝は和食で魚料理と決まっています。だらだらするのが嫌いなので、子供たちが休みの日の昼食はいつも通りの時間で、僕がパスタやお好み焼きを作ったりもします。夜はご飯ものを控え、鶏胸肉などをメインにしています。この食事とランニングで、体重57kgをキープできています。
家庭菜園というほどではないですが、今はシソを育てています。ほったらかしでもどんどん増えますが、水やりだけは欠かせません。シソを食べて、質素(しっそ)な夕飯!

家族との日常を話す時の表情が柔らかい

家族との日常を話す時の表情が柔らかい

「一発屋会」名誉会長として思う事

「ゲッツ!」は、大ブレイクしましたが、徐々に下火になっていきました。でも、2009(平成21)年ごろから、再び仕事の状況が良くなり始めて気づいたんです。「ゲッツ!」でもう1周目のお声がかかるのなら、これを一生懸命やればいい。得意じゃない事より、得意な事を伸ばそうと思って、今に至っています。
一発屋と言われる芸人さんたちは、そう言われるのが宿命だと思った方がいい。世間が自分に求めているものを履き違えて、自分にないキャラクターや役割を演じようとすると、この世界で生きていくのが難しくなっちゃいますからね。いろいろな芸人さんがいて、それぞれ役割分担がある。自分自身をよく知っていないと、この世界は悩ましいですよ。どんどん若い人が出て来ますしね。僕の場合は「おじさん芸人、黄色い“ゲッツ!”の人、頑張ってるね」でいいんじゃないかなって。そう考えるようになってから楽になりました。

2008(平成20)年 ブレイクから5年後に出した著書『こんなに元気です。一発屋と呼ばれて』(エンターブレイン)

2008(平成20)年 ブレイクから5年後に出した著書『こんなに元気です。一発屋と呼ばれて』(エンターブレイン)

「現状維持」するために、頑張っている事

お笑いトーク中によく「目標、現状維持!」と叫んでいますが、容姿も、体力も、気持ちも、若い時のままを維持しようと、本気で努力しています。「現状維持」って、実は相当努力しないとできないんですよ。そのため、最近はダンスやドラムも習っています。体力維持の目的もありますが、自分が本当にやりたい事をやりたいと思い始めたんです。作詞作曲をし、音源を自作して、歌って、YouTubeに何曲かアップしました。この作業は、時間も手間もかかりますが、楽しいです。これからも、80年代風の楽曲を作りたいと思っています。
僕はもともと、田原俊彦さんに憧れて芸能界に入りました。田原さんみたいにはなれませんでしたが、自分が憧れた芸能活動に似た事を、プライベートで実現できているので、今は非常に充実感があります。この状態を「現状維持」できるように頑張りたいです。

▼関連情報
ダンディ坂野 だんさかch ダンミュージック音楽出版(外部リンク)

体型を維持するのは、トレードマークの黄色い服を格好よく着こなし続けるため(©サンミュージックプロダクション)

体型を維持するのは、トレードマークの黄色い服を格好よく着こなし続けるため(©サンミュージックプロダクション)

今後の人生に、野望あり!

これからやりたい事は、声を生かした仕事ですね。ナレーションとか、声優とか。「黄色い服のハイテンションの“ゲッツ!”の人」も、もちろん一生懸命全力でやっていきますが、55歳という年齢相応の、自分の声とスタンスでやってみたいという願望もあります。
2020(令和2)年に東京メトロの車内広告に、小島よしお君と一緒に出させてもらった「ピークを知る男。」。渋い中年紳士風に撮っていただいて、結構反響もありました。こういう仕事もやりたいですね。オファー、来ないかなぁ。
もう一つの願望は、仲間と一緒に歌を作る事です。サンミュージックは、もともと音楽プロダクションです。「お笑い班」のみんなで歌える歌を作って、できればNHK紅白歌合戦で歌いたいというのがひそかな野望です。まだ発表はできないですが、そのためにいろいろ準備中です。

年齢相応の仕事もしてみたいというダンディ坂野さん(資料提供 東京メトロ)

年齢相応の仕事もしてみたいというダンディ坂野さん(資料提供 東京メトロ)

取材を終えて

「アメリカンジョーク風の漫談の合間に“ゲッツ!”と叫ぶ黄色い人」というイメージだったダンディ坂野さん。1時間の取材で、印象が大きく変わった。一言で言うと、質実剛健。落ち着いたイケメンボイスで、「大ブレイクしたピーク時よりも、家庭と仕事と趣味がバランスよく回っている今が一番幸せ」と語る姿に引き込まれた。すてきな「現状維持」をしつつ、さらに大きな野望に燃えるダンディさんを応援したい。

気さくに著書にサインしてくれた

気さくに著書にサインしてくれた

ダンディ坂野 プロフィール

1967年1月16日生まれ。石川県加賀市出身。株式会社サンミュージックプロダクション所属。
1993年、26歳で上京。田原俊彦に憧れアイドル歌手を目指すも、年齢的な理由でお笑い芸人に転向。阿佐ケ谷駅前のマクドナルドでアルバイトをしながら、お笑い養成所に2年通い、その後コンビで芸能活動開始。1996年、ダンディ坂野として活動開始。2003年、「ゲッツ!」で大ブレイク。お笑い芸人としての活動のほか、テレビドラマ・映画・CMへの出演多数。

私服で「ゲッツ!」。足の開き加減が、田原俊彦さん風になっている!?

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DATA

  • 出典・参考文献:

    『こんなに元気です。一発屋と呼ばれて』ダンディ坂野(エンターブレイン)
    『芸人貧乏物語』松野大介(講談社)
    「婦人公論」2021年4月27日号(中央公論新社)    
    「週刊新潮」2018年11月29日号(新潮社)
      

  • 取材:磯部恵子
  • 撮影:マーク・ヒル
    写真提供:サンミュージックプロダクション
    取材日:2022年07月13日
  • 掲載日:2022年08月29日