instagram

元横綱・大乃国 芝田山親方

「昭和最後の横綱・大乃国」の、親方としての日々

芝田山(しばたやま)親方は、かつて阿佐谷にあった3つの相撲部屋で修行した「昭和最後の横綱・大乃国」である。阿佐谷はかつて「東の両国、西の阿佐谷」といわれるほどの相撲王国であった。現在、杉並区内に唯一残る芝田山部屋の師匠として後進の指導に当たる一方、相撲協会の理事としても多方面で活躍している。
北海道で過ごした少年時代や、修行時代の思い出、さらに、多忙な日々の中でも手作りするほど愛してやまないスイーツや、「食」を通して伝えたい思いなど、熱く語っていただいた。

体を作る「食」、心と技を鍛える「修練」について語る芝田山親方

体を作る「食」、心と技を鍛える「修練」について語る芝田山親方

自ら進んで農作業を手伝った少年時代

私が生まれ育ったのは、北海道、十勝平野の中心都市・帯広に隣接する芽室町です。実家は祖父の代から農業と酪農を営んでおり、私も幼少の頃から家業を手伝っていました。畑で初めてトラクターを動かしたのは小学3年生の時。刈り取ってニオ積みした豆を脱穀機まで運んだり、牛の世話をしたり。そのおかげで、自然に体と精神が鍛えられました。田舎ですし、友達と遊びに行く所もなかったですね。仕事はきつかったけど、少しでも両親の負担を軽減したい一心で、自ら進んで畑に出ていました。よく「相撲取りになっていなかったら、何になっていたか」と聞かれるのですが、私は「親父を超える立派な農業士」って答えているんです。

玄関にある片岡球子画伯揮毫(きごう)の「芝田山部屋」看板

玄関にある片岡球子画伯揮毫(きごう)の「芝田山部屋」看板

花籠(はなかご)部屋での修行時代

中学3年の15歳の時に、大相撲の夏巡業が芽室町で開催され、帯同していた魁傑(かいけつ)関に誘われて、内弟子として花籠(はなかご)部屋に入門することになりました。相撲は、春・秋の祭りなどのほか取ったこともなかったので、まったく予想外の人生方向転換でしたが、新弟子となった私は、部屋の雑用や、ちゃんこ番、付け人としての仕事など、何でも一生懸命やりました。子供の頃から親の手伝いで鍛えられていましたから、わりと手際よく、かつ几帳面(きちょうめん)に仕事して。でも、それが逆に気に入らないと言われて、兄弟子に目をつけられたこともありましたが、そんな人は少数で、良い先輩や地元の商店街の人たちに支えられて、修行できたことは幸せでしたね。

芝田山部屋の地下にある稽古場で励む力士たち(写真提供:芝田山部屋)

芝田山部屋の地下にある稽古場で励む力士たち(写真提供:芝田山部屋)

地元、阿佐谷の人々に支えられて

今でもよく覚えているのは、花籠部屋から中杉通りに出るまでの、通称「観音通り」と呼ばれていた小さな商店街の人たちのことです。ここは、観音湯という銭湯を始め、米屋、薬局、八百屋、豆腐屋、クリーニング店などの個人商店が並んでいて、どのお店にも大変お世話になりました。米屋のおばちゃんには、破れた浴衣を繕ってもらったり、端切れだけで半纏(はんてん)を縫ってもらったりもしましたよ。また兄弟子から「包帯を買ってこい」と言われ、閉店後の薬局のシャッターを叩いて、無理に開けてもらった上に、ツケで買わせてもらったこともありました。豆腐屋さんからは、毎日一斗缶に半分くらいの豆腐を買っていましたし、八百屋さんではちゃんこの材料を調達させてもらっていましたね。今はもうなくなった店が多いし、恩返しのしようがないけれど、思い出すと本当にありがたいし、懐かしいなぁ。

初土俵から9年目、25歳で横綱に昇進

初土俵から9年目、25歳で横綱に昇進

阿佐谷の3つの相撲部屋で育てられた

地元の飲食店にも、たくさんお世話になりました。年に3回、部屋で横綱の綱打ちをするのですが、その日は朝から全員でやるから、ちゃんこが作れないんですよ。それで近所のそば屋さんに出前を頼むのですが、なにせ60人分くらいですからね、1軒じゃ無理。「やぶ浅」と「福寿庵」という2軒のお店に、かつ丼や天丼、そばなどを30食ずつ頼んだのですが、これがおいしかったなぁ。「福寿庵」は、場所を変えて今でも阿佐ケ谷駅の近くでやっていますね。
入門して3年ほどした1981(昭和56)年2月、師匠の魁傑関が引退、独立して放駒(はなれごま)部屋を開設。私も入れて10人の弟子が、できたばかりの放駒部屋へ移籍しました。まだ力士の数も少なかったので、自転車で15分ほどのところにある二子山(ふたごやま)部屋に、毎日のように出稽古に行っていました。
花籠部屋、放駒部屋、二子山部屋と、3つの相撲部屋で育てられた私にとって、阿佐谷は第二の故郷ですね。だから私が親方として部屋を持とうと思った時も、やはりここ、杉並の地は離れたくないと思ったんです。

青梅街道沿いから阿佐ケ谷駅北口に移った「福寿庵」

青梅街道沿いから阿佐ケ谷駅北口に移った「福寿庵」

かつての放駒部屋の前に立つ弟子たち

かつての放駒部屋の前に立つ弟子たち

「スイーツ親方」と呼ばれて

私は大関になった頃から、お菓子を作ってみようと思い、簡単なスイーツに挑戦するようになったんですよ。ホットケーキを焼いて、それにクリームやフルーツをあしらっただけでも立派なケーキ風になります。結婚して子供ができてからは、コミュニケーションを取る上でも、お菓子作りはもってこいでした。
そのうち、世の中にスイーツブームがやってきました。私もお菓子作りのテレビ番組に出演させていただいているうちに、スイーツ本の出版や、女性雑誌、各種メディアにお声掛けいただき、いつの間にか「スイーツ親方」という呼び名まで頂戴していました。初めは戸惑いましたが、これも相撲協会や角界のイメージアップにつながればいいなという考えで、「商標登録」を得て楽しんでいます。
最近は本場所中に、スイーツパンとして「小豆やメープルを練り込んだパン」や「横綱食パン」を販売。私も売り場に立っていますが、人気なので、毎日売切れ御免、早めに来ないと買いそびれちゃいますよ。

本場所中、「スイーツ親方の店」に立つエプロン姿の親方

本場所中、「スイーツ親方の店」に立つエプロン姿の親方

堂々たる横綱の焼印も鮮やかな「横綱食パン」

堂々たる横綱の焼印も鮮やかな「横綱食パン」

親方の根っこは北海道の大地

よく「甘いものが好きなんですね」と言われるんですが、甘いものだけじゃない。辛いものも、酸っぱいものも、しょっぱいものも、苦いものも、みんな好きです。
実家にいたころは、自分の口に入るものは、ほとんど自宅の畑でとれたものでした。大根、ニンジン、ジャガイモ、トウモロコシ、トマト、キュウリ、メロン、スイカ、ナス、ピーマン、百合根、小豆、大豆、ビート、麦など。他にもまだあります。私も耕作、種まき、草取り、刈り取り、運搬と、農作業の工程をすべて経験していますからね。食べ物のありがたさは人一倍わかっていると思っています。
上京して45年。人生の4分の3は、杉並を起点として過ごしたことになりますが、北海道で暮らした少年時代に人生の基本となる大切なことは、祖父母や両親の生き方や教えと、畑仕事から学びました。私の根っこはここにあります。

最近作ったという帽子形のケーキ「ズコット」の写真を見せてくれた

最近作ったという帽子形のケーキ「ズコット」の写真を見せてくれた

弟子たちに伝えたいこと

体を作るのは食べ物です。その食べ物に対する思いを伝えたくて、以前、弟子たちと新潟県十日町に通って、米作りをやりました。種まきから、田植え、草取り、稲刈り、籾摺(もみす)りまで、12年間やりました。一粒一粒が積み重なって、一膳のご飯になることを知ってもらいたかったんです。
よく「最近の若者は…」と言う人がいますが、その若者を育てたのは私たち大人です。私は自分の経験から、家庭での教育が重要だと思っています。
私が弟子たちに1番伝えたいのは「辛抱・努力・根気」です。意地とやる気を見せてほしい。人生、山あれば谷あり。がんばってもすぐに結果が出ないこともある。人生の千秋楽は、まだまだ先。最後に「生まれてきて良かった」と思えるような日々を積み重ねてほしいと思っています。

弟子の杉並区浜田山出身の力士・浜田山さん(写真右)

弟子の杉並区浜田山出身の力士・浜田山さん(写真右)

芝田山部屋近く、高井戸にある定食屋「三錦」の皆さんと

芝田山部屋近く、高井戸にある定食屋「三錦」の皆さんと

取材を終えて

相撲部屋があった辺りの地図を拡大コピーして持参したところ、次々と店名を書き込みながら、その店にまつわるエピソードを懐かしそうに語られた。愛情深く、また時に厳しく、弟子を育てる親方の原点が、阿佐谷の修行時代と、みずから農作業にいそしんだ少年時代にあることが、2時間近いインタビューで深く腹落ちした。後進の育成と、角界のさらなる発展のため、ますますのご活躍をお祈りしたい。

阿佐谷周辺の地図に書き込まれた店の名は30軒近い

阿佐谷周辺の地図に書き込まれた店の名は30軒近い

芝田山親方(元・横綱 大乃国)プロフィール

芝田山 康(第62代横綱・大乃国)
本名:青木 康
出身地:北海道河西郡芽室町
生年月日:1962年10月9日
初土俵:1978年春場所
通算成績:426勝228敗105休、幕内最高優勝2回・殊勲賞5回・敢闘賞2回
1982年春場所新十両、1983年春場所新入幕。新入幕の年の九州場所で、北の湖・千代の富士・隆の里の三横綱を倒す大活躍。翌年の春場所では、三横綱三大関を総なめにし、殊勲賞・敢闘賞を受賞。1985年名古屋場所後大関昇進、1987年夏場所で全勝の初優勝を果たした。同年秋場所後に横綱推挙。翌年春場所で2回目の優勝。同年九州場所の「昭和最後の一番」で千代の富士の53連勝に土をつけた。1991年名古屋場所、28歳で引退。現役名で年寄となり、のち「芝田山」を襲名。1999年6月に満を持して芝田山部屋を開き、現在親方として弟子育成に奮闘する傍(かたわら)ら、角界きっての甘党美食家としても活躍中。

自著『負けるも勝ち 相撲とは−人生とは−』に、毛筆ペンでサインしてくれた

自著『負けるも勝ち 相撲とは−人生とは−』に、毛筆ペンでサインしてくれた

DATA

  • 公式ホームページ(外部リンク):http://shibatayama.fc2web.com/
  • 出典・参考文献:

    『負けるも勝ち 相撲とは−人生とは−』芝田山康(ダイヤモンド社)
    『第62代横綱 大乃国の全国スイーツ巡業』芝田山康(日本経済新聞出版社)
    『横綱』武田葉月(講談社)

  • 取材:磯部恵子
  • 撮影:マーク・ヒル
    取材日:2022年05月24日
  • 掲載日:2022年08月15日