2021(令和3)年に99歳で亡くなるまで、ほぼ現役で作家活動を続けた瀬戸内寂聴さん。この作品は、70代後半の彼女が、1973(昭和48)年に51歳で出家するまで関わりのあった場所を再訪し、過去を回想し去来する思いをつづった私小説だ。2001(平成13)年、第54回野間文芸賞(※1)を受賞した。
東京女子大学に入学するまで過ごした故郷の徳島から、結婚生活に終止符を打って創作を始めた京都、作家としての地位を確立していった中央線沿線の町々(三鷹・西荻窪・中野)、そして出家を決意した本郷まで14の場所が登場する。彼女が、住む場所を転々とし、出会いと別れを繰り返し、ひたむきに書き、愛し、生きていく様が静かな筆致で描かれる。全編にあふれているのが、情熱を分かち合い、作家活動の支えとなった男たちへの哀惜の思いだ。彼らとの錯綜(さくそう)した関係にもがきながら創作に専心する姿は、読後に忘れ難い余韻を残してくれる。
杉並区の西荻窪は、著者のターニングポイントともいえる町だ。東京女子大学の学生募集ポスターの礼拝堂の写真に一目で魅せられ、進学を決意したところから西荻窪との縁が始まった。少女小説や童話の執筆で生活の糧を得ていた彼女が、1957(昭和32)年に『女子大生・曲愛玲(チュイアイリン)』で第3回同人雑誌賞(※2)を受賞し、作家への第一歩をしるしたのは、下宿生活をしていた西荻窪だった。
大学生時代と、駆け出し作家時代が描かれた西荻窪の章は、全体に漂う明るい空気から、町への忘れ得ぬ思いが感じられ印象に残る。かつての下宿先を訪問し、あの頃が「生涯で一番平和で、幸せだったかもわかりませんね」と回想しているものもうなずける。杉並ゆかりの作家としての瀬戸内寂聴さんを知るのに、ぜひ手に取ってほしい作品だ。
※1 野間文芸賞:講談社初代社長、野間清治の遺志により設立された財団法人野間文化財団が主催する文学賞。純文学の小説家・評論家に授与される
※2 同人雑誌賞:新潮社の雑誌「新潮」が主催する文学賞。全国の同人雑誌単位の推薦作から選考された。第14回をもって終了。瀬戸内さんの所属した同人雑誌「Z」には、後に作家として名を成した吉村昭さんと津村節子さんなどが参加していた