「著名人に聞く 私と杉並」コーナーで紹介している大蔵流狂言 山本東次郎家の四世山本東次郎(やまもと とうじろう)さん。初稽古は1941(昭和16)年5月5日、5歳(満4歳)の誕生日で「戦争の影が忍び寄ってきた頃だった」と言う。
取材で伺った子供時代の話のうち、戦争に関する貴重な証言をまとめた。
1944(昭和19)年の11月に、初めて東京上空に敵機が現れました。お昼ご飯を食べていた時に、南の空からダーッて飛んできたんですよ。そうしたらラジオで「敵機が来た」って。それをまさに目撃したんです。その時は偵察だったんでしょうね、被害はなくて、ただ東京上空を通過して行ったらしいんですけれど。
その後、だんだん空襲が始まって、ちょっと危ない時は警戒警報、いよいよ危険になると空襲警報が出たんです。
その年の12月の第1日曜日、飯田橋の大曲(東京都新宿区新小川町)にあった観世能楽堂に、父の弟子の中島登と一緒に観世会の公演に行きました。警戒警報の時はたいてい公演は行われるんですけれど、観世会は警戒警報でもやめるという決まりだったので、着いたら警報が出たため中止になりました。
父はその日は、同じ飯田橋でも反対側の富士見町(東京都千代田区富士見町)にある(侯爵の)細川さんの舞台の金春会に出演する予定でした。中島が「先生がいらっしゃる細川舞台に行きましょう」と言うので、一緒に歩いて行きました。金春会は警戒警報ならやるというので準備をしていたのですが、いよいよ開演という時になって空襲警報が出て中止になってしまいました。
B29に向かって代々木の練兵場から高射砲を撃つんだけど、届くわけないですよね。それが上空で炸裂(さくれつ)して、弾の破片の金属の塊が落っこちてくる。頭をけがしないように父にかばってもらいながら、木の陰だとかトラックの下だとかに隠れながら逃げ惑っているうちに、夕方になって、やっとB29が去って空襲警報が解除になったんです。都電が走り出したのでそれに乗って、薄暗くなった頃にようやく家に帰り着きました。
翌年はもっともっとひどくなった。たいてい夜襲なんですね。あっちもこっちも焼けてしまって。父が舞台の屋根の上に火ばたきを持って仁王立ちになっている姿をよく覚えています。何としても舞台を守るっていうすごい気迫でしたね。そんな状況でも、父は最後まで私を自分の手元に置いて稽古する気でいたんです。
3月の初め、しんしんと雪の降る中、ここ(杉並能楽堂)で父と稽古した日のことは忘れません。その時はB29が昼でも爆弾を落としたんですよ。爆弾というのは焼夷弾(しょういだん)と違って、落ちてくる時すごい音がする。ヒューッ!バーンッ!スルスルスルと。そうすると、この辺りが地震みたいにすごく揺れる。何発も何発もくるんですよ。ここから500~800mくらい離れている所だと思うんですけれど。それでも父は顔色を変えず、ずっと稽古を続けました。「景清」という小舞を繰り返し繰り返しやって、ものすごい迫力なんですよ。その真剣さが子供にも伝わってくるのね、だから怖くない。
疎開している間は舞台はありませんし、学校も東京の方が進んでいたので何もしなくても勉強がよくできた。当時、子供たちは教育勅語を覚えさせられたのですが、私は暗記が得意なのでほぼ全部覚えていたんですね。そうしたら「君は2年生だけど、5年生の教室に行っていい」と言われるくらい。
稽古はないし、勉強もしなくていいし、周りには自然がいっぱいあるんですよ。土地の子たちとヒバリの巣を取りに行ったり、小川をせき止めてフナやドジョウを捕って遊んだり。あとは、お蚕さんを飼っていて、それを見るのが好きでした。
8月15日に玉音放送を聴かされて。みんな大人は泣いているんだけど、なんだかよくわからなかった。小学校2年生、9歳(満8歳)でしたから。戦争が終わったということだけはわかりました。