「杉並の景観を彩る建築物」コーナーで紹介している「旧滋賀家住宅主屋」。現当主である中島公子(なかじま こうこ)さんは、幼い頃は小石川竹早町(東京都文京区)に住んでいたが、戦時中の1944(昭和19)年に、祖父・滋賀重列さん(※1)が設計した井荻の家(現「旧滋賀家住宅主屋」)へ家族で越してきたという。当時の暮らしについて話を伺った。
1940(昭和15)年というのが、日本には重要な年なんです。紀元二千六百年(※2)。盛大に祝って祭典が終わった後、「祝ひ 終つた さあ働かう!」というスローガンが出ました。前の年に大戦を始めたナチス・ドイツと手を組んだ国が、政策を180度変え、戦争への体勢を整えたのです。
太平洋戦争が1941(昭和16)年12月8日に始まると、うちのアルバムから写真が消えます。表現の自由とともに、写真撮影も禁止されたのです。昭和17年は4月に初めての東京空襲が一度だけあったほかはわりと静かだったけれど、だんだん危なくなってきて、18年になるとアッツ島の玉砕などが始まるわけです。
その時の私は小学5年生。洋服の上にモンペをはき、胸に名札を付け、防空頭巾も持つようにいわれて、髪の長さなども決められました。
1944(昭和19)年8月に学童疎開が始まりました。父が新潟の出身で親戚の家がありましたので、私は単身でそちらへ縁故疎開することになりました。
それで、サイパン玉砕のニュースを聞きながら荷造りしていた時だと思います。ちょっと2階へ上がってみたら、どういうわけか、お月さまが真っ赤な血の色をしていたんです。私は、サイパン島の人たちが全滅したことと、その赤い月の印象が強く結び付いて、なんか怖いなあ、どうなるのかなあと。もしかしたら日本も東京もどうにかなっちゃうのかな、と思ったことを鮮明に覚えています。
1945(昭和20)年1月に、女学校への進学のためにいったん東京へ帰り、すぐに集団疎開に合流しました。
私たちの学校は西武線の東村山に農園があったので、そこに集団疎開していました。卒業式を控えた6年生が明日、親元に帰るということになったら、ものすごい空襲でね。3月9日の夜中から10日の朝にかけての、いわゆる東京大空襲です。東の空一面が真っ赤に燃え上がるすごい光景でした。
東京は丸ごと焼けてしまったかと思っていたら、翌朝電車は動いて、予定通り高田馬場に保護者が迎えに来ました。でも大空襲で父母が来られなかった子もいて、先生がそういう子どもたちを農園に連れて戻ることになったんです。ところが男の子が一人、列から抜け出して、高田馬場から歩いて東北の親戚の家まで行ったそうです。そういういろんなことがありましたから、私たちはせっかく帰ってきたのに、卒業式も女学校の入学試験もできませんでした。
その後、入学式もないままに女学校へ通い始めましたが、空襲が毎日のようにあるんですよ。学校へは行くんですけれど、行くと警戒警報が鳴って帰らされる。そうなると電車は動いていないことが多いんです。仕方がないから文京区の護国寺の先から井荻まで歩いて帰りました。
そのうちいわゆる女子挺身隊(じょしていしんたい)の動員がかかって。農村では男性がみんな兵隊に取られて人手不足だったんです。それを助けるということで、実質的には疎開なんですけれど、1945(昭和20)年5月に、担任の先生のご郷里の秋田県石澤村(当時)へ、1、2年生109名が、先生たちとともに行きました。
まず農家に数名ずつ分宿して、田植え、草取り、家に残った子どものお守りなどする合間に、国民学校の教室をお借りして勉強もしました。
お寺に合宿するようになって、8月15日、終戦を迎えました。玉音放送は先生が教員室で聞いていらして、教室の私たちに「戦争に負けた」と。でも、勝つとしか教えられてこなかったから半信半疑でね。
夜になって、面会にいらしていた、先輩(当時の鈴木貫太郎首相の孫娘)のお母さまからお話がありました。東京へ帰れますよとはおっしゃらなかったけれど、平和が戻ってきたことはしっかりおっしゃった。そうしたら、生徒の反応は真っ二つに分かれました。さっさとモンペを脱いでワンピースに着替えて「チョコレートが食べられる!」とはしゃいだ人たちがいた反面、負けた悔しさに泣いた人もいます。でもそのどちらも、これから空襲がないこと、父母の元に帰れることは、心底うれしかったに違いありません。
東京へ帰って来たのは10月26日、学校も再開しました。
戦時中、井荻の家があった辺りは焼夷弾(しょういだん)ではなく、爆弾が落ちました。中島飛行機の工場防衛のために、すぐ近くの、現在は杉並区立中瀬中学校のある所が高射砲陣地だったからです。でも弾はもう一発もなかったんですけれど。
爆弾が落ちると、とにかく大きな穴が開くんです。何もなくなっちゃうんですよ、家1軒が吹っ飛んで穴だけになっちゃう。そこから飛んだものが電線にひっかかったりして。
地震も怖いですけれど、爆弾の衝撃の方がすごいです。地下の防空壕(ぼうくうごう)に入っていると、土が揺れるというか、体中やられるというか、もう私は死んだと思って…。ものすごい経験でした。
若い方々には、戦争がいかに人道に反した、とんでもないものであるかを少しでも知っていただきたいです。戦争というものは私たち人間が起こすものなんですよ。あの時どうして戦争になってしまったのか、戦争を起こさないためには何をしたらよいのか、ということを、私たちみんなで考えることが何よりも大事だと思います。
※1 滋賀重列(しが しげつら):東京高等工業学校(現東京工業大学)の初代建築科長
※2 紀元二千六百年:神武天皇が即位したとされる年を元年とする年の数え方。1940(昭和15)年は皇紀2600年にあたり、国を挙げて祝賀行事が行われた
『祖父・鈴木貫太郎 孫娘が見た、終戦首相の素顔』鈴木道子(朝日新聞出版)
お茶の水女子大学教育・研究成果コレクション「お茶の水女子大学百年史」
https://teapot.lib.ocha.ac.jp/records/7506
「1945年~1950年 空中写真」(国土地理院)