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【証言】中島公子さん

戦前~戦後の井荻での暮らし

「杉並の景観を彩る建築物」コーナーで紹介している「旧滋賀家住宅主屋」。現当主である中島公子(なかじま こうこ)さんは、幼い頃は小石川竹早町(東京都文京区)に住んでいたが、戦時中の1944(昭和19)年に、祖父・滋賀重列さん(※1)が設計した井荻の家(現「旧滋賀家住宅主屋」)へ家族で越してきたという。当時の暮らしについて話を伺った。

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すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>杉並の景観を彩る建築物>旧滋賀家住宅主屋

中島公子さん。「旧滋賀家住宅主屋」にて

中島公子さん。「旧滋賀家住宅主屋」にて

太平洋戦争前の平穏な日常

太平洋戦争が始まるまで、日本は中国と戦争しているにもかかわらず、まだけっこう自由でした。いわゆるサラリーマン家庭の生活はかなり良かった。例えば、文京区の私の家には電気冷蔵庫がありました。
井荻の家は、設計した祖父が亡くなった後、祖母が女中さんと暮らしていました。私は休みの時にしょっちゅう遊びに行っていました。この辺りは小学校(現杉並区立桃井第五小学校)と家が数軒あるくらいで、あとは森と竹やぶと畑以外、何もない所でした。
水道もガスもないので、引っ越してからは毎日手押しポンプで水を汲み、炊事はまきと七輪でしました。むろん電気冷蔵庫は物置行きでした。

1939(昭和14)年頃、主屋の隣の土地を購入しようと家族で下見に訪れた時の写真(写真提供:中島公子さん)

1939(昭和14)年頃、主屋の隣の土地を購入しようと家族で下見に訪れた時の写真(写真提供:中島公子さん)

身近に迫る戦争

1940(昭和15)年というのが、日本には重要な年なんです。紀元二千六百年(※2)。盛大に祝って祭典が終わった後、「祝ひ 終つた さあ働かう!」というスローガンが出ました。前の年に大戦を始めたナチス・ドイツと手を組んだ国が、政策を180度変え、戦争への体勢を整えたのです。
太平洋戦争が1941(昭和16)年12月8日に始まると、うちのアルバムから写真が消えます。表現の自由とともに、写真撮影も禁止されたのです。昭和17年は4月に初めての東京空襲が一度だけあったほかはわりと静かだったけれど、だんだん危なくなってきて、18年になるとアッツ島の玉砕などが始まるわけです。
その時の私は小学5年生。洋服の上にモンペをはき、胸に名札を付け、防空頭巾も持つようにいわれて、髪の長さなども決められました。

南京陥落奉祝旗行列(1937年)。幼稚園に入園した時に日中戦争が始まった(写真提供:中島公子さん)

南京陥落奉祝旗行列(1937年)。幼稚園に入園した時に日中戦争が始まった(写真提供:中島公子さん)

幼稚園にも、こうしたスローガンが掲げられていた(写真提供:中島公子さん)

幼稚園にも、こうしたスローガンが掲げられていた(写真提供:中島公子さん)

赤い月とサイパン島全滅

1944(昭和19)年8月に学童疎開が始まりました。父が新潟の出身で親戚の家がありましたので、私は単身でそちらへ縁故疎開することになりました。
それで、サイパン玉砕のニュースを聞きながら荷造りしていた時だと思います。ちょっと2階へ上がってみたら、どういうわけか、お月さまが真っ赤な血の色をしていたんです。私は、サイパン島の人たちが全滅したことと、その赤い月の印象が強く結び付いて、なんか怖いなあ、どうなるのかなあと。もしかしたら日本も東京もどうにかなっちゃうのかな、と思ったことを鮮明に覚えています。

東村山への集団疎開と東京大空襲

1945(昭和20)年1月に、女学校への進学のためにいったん東京へ帰り、すぐに集団疎開に合流しました。
私たちの学校は西武線の東村山に農園があったので、そこに集団疎開していました。卒業式を控えた6年生が明日、親元に帰るということになったら、ものすごい空襲でね。3月9日の夜中から10日の朝にかけての、いわゆる東京大空襲です。東の空一面が真っ赤に燃え上がるすごい光景でした。
東京は丸ごと焼けてしまったかと思っていたら、翌朝電車は動いて、予定通り高田馬場に保護者が迎えに来ました。でも大空襲で父母が来られなかった子もいて、先生がそういう子どもたちを農園に連れて戻ることになったんです。ところが男の子が一人、列から抜け出して、高田馬場から歩いて東北の親戚の家まで行ったそうです。そういういろんなことがありましたから、私たちはせっかく帰ってきたのに、卒業式も女学校の入学試験もできませんでした。

集団疎開先だった東京女子高等師範学校附属小学校郊外園(お茶の水女子大学所蔵)

集団疎開先だった東京女子高等師範学校附属小学校郊外園(お茶の水女子大学所蔵)

疎開前は郊外活動の場として使用されていた(お茶の水女子大学所蔵)

疎開前は郊外活動の場として使用されていた(お茶の水女子大学所蔵)

戦時下の女学校と勤労動員

その後、入学式もないままに女学校へ通い始めましたが、空襲が毎日のようにあるんですよ。学校へは行くんですけれど、行くと警戒警報が鳴って帰らされる。そうなると電車は動いていないことが多いんです。仕方がないから文京区の護国寺の先から井荻まで歩いて帰りました。
そのうちいわゆる女子挺身隊(じょしていしんたい)の動員がかかって。農村では男性がみんな兵隊に取られて人手不足だったんです。それを助けるということで、実質的には疎開なんですけれど、1945(昭和20)年5月に、担任の先生のご郷里の秋田県石澤村(当時)へ、1、2年生109名が、先生たちとともに行きました。
まず農家に数名ずつ分宿して、田植え、草取り、家に残った子どものお守りなどする合間に、国民学校の教室をお借りして勉強もしました。

石澤村(当時)への感謝と平和祈念を込め整備された「絆の茂里公園」(写真提供:石沢Zuボランティア)

石澤村(当時)への感謝と平和祈念を込め整備された「絆の茂里公園」(写真提供:石沢Zuボランティア)

その地域に集団疎開していた生徒と同じ数の桜が贈られた(写真提供:石沢情報局)

その地域に集団疎開していた生徒と同じ数の桜が贈られた(写真提供:石沢情報局)

秋田で迎えた終戦

お寺に合宿するようになって、8月15日、終戦を迎えました。玉音放送は先生が教員室で聞いていらして、教室の私たちに「戦争に負けた」と。でも、勝つとしか教えられてこなかったから半信半疑でね。
夜になって、面会にいらしていた、先輩(当時の鈴木貫太郎首相の孫娘)のお母さまからお話がありました。東京へ帰れますよとはおっしゃらなかったけれど、平和が戻ってきたことはしっかりおっしゃった。そうしたら、生徒の反応は真っ二つに分かれました。さっさとモンペを脱いでワンピースに着替えて「チョコレートが食べられる!」とはしゃいだ人たちがいた反面、負けた悔しさに泣いた人もいます。でもそのどちらも、これから空襲がないこと、父母の元に帰れることは、心底うれしかったに違いありません。
東京へ帰って来たのは10月26日、学校も再開しました。

井荻の家すぐ近くに爆弾が落下

戦時中、井荻の家があった辺りは焼夷弾(しょういだん)ではなく、爆弾が落ちました。中島飛行機の工場防衛のために、すぐ近くの、現在は杉並区立中瀬中学校のある所が高射砲陣地だったからです。でも弾はもう一発もなかったんですけれど。
爆弾が落ちると、とにかく大きな穴が開くんです。何もなくなっちゃうんですよ、家1軒が吹っ飛んで穴だけになっちゃう。そこから飛んだものが電線にひっかかったりして。
地震も怖いですけれど、爆弾の衝撃の方がすごいです。地下の防空壕(ぼうくうごう)に入っていると、土が揺れるというか、体中やられるというか、もう私は死んだと思って…。ものすごい経験でした。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 歴史>【証言集】中島飛行機 軌跡と痕跡

戦時中の現中瀬中学校付近。この辺りに高射砲陣地があったと思われる(出典:「1936年~1942年 空中写真」(国土地理院)を一部掲載・加筆)

戦時中の現中瀬中学校付近。この辺りに高射砲陣地があったと思われる(出典:「1936年~1942年 空中写真」(国土地理院)を一部掲載・加筆)

爆弾投下後に防空壕から外へ出たら、家の建物自体はきれいに残っていましたが、瓦が何枚か飛んでいました。この家の瓦は針金で1枚ずつつないであるのですが、それだけ衝撃で起きた風が強かったのでしょう。それと根太(床を支える構造部分)にだんだん緩みが出て、しばらくしてから畳が落ちてしまったんです。これも爆撃の影響でしょうね。
戦争が終わった後も被害はどんどん出てくるということです。例えばノミやシラミの被害とか。停電も毎晩だったし、野犬の横行も怖かった。
終わったはずの戦争が、なかなか終わりませんでした。戦争で死ななかった大人も、多くがこの時期に亡くなりました。

庭に残されている防火用水

庭に残されている防火用水

窓ガラスも当時のものが残っており、今も使用している

窓ガラスも当時のものが残っており、今も使用している

「みんなで考えることが大事」

若い方々には、戦争がいかに人道に反した、とんでもないものであるかを少しでも知っていただきたいです。戦争というものは私たち人間が起こすものなんですよ。あの時どうして戦争になってしまったのか、戦争を起こさないためには何をしたらよいのか、ということを、私たちみんなで考えることが何よりも大事だと思います。

※1 滋賀重列(しが しげつら):東京高等工業学校(現東京工業大学)の初代建築科長
※2 紀元二千六百年:神武天皇が即位したとされる年を元年とする年の数え方。1940(昭和15)年は皇紀2600年にあたり、国を挙げて祝賀行事が行われた

DATA

  • 出典・参考文献:

    『祖父・鈴木貫太郎 孫娘が見た、終戦首相の素顔』鈴木道子(朝日新聞出版)
    お茶の水女子大学教育・研究成果コレクション「お茶の水女子大学百年史」
    https://teapot.lib.ocha.ac.jp/records/7506
    「1945年~1950年 空中写真」(国土地理院)

  • 取材:CHIE
  • 撮影:CHIE
    写真提供:中島公子さん、お茶の水女子大学、石沢Zuボランティア、石沢情報局
    取材日:2024年06月01日
  • 掲載日:2024年08月06日