木にまつわる怖い話で一番多いのは、むかし話でもよくあるように、伐ってはいけない木をお金に目がくらんで伐ってしまった人が木霊にとり殺されたり、大事に扱われていた木を粗末に扱ったために仕返しを受けるなどのパターンが多いようです。
杉並区にも江戸時代に、お金に困った村人が村の目印になっていた大きな杉の木を勝手に売りとばした後、杉の木の祟りで不幸が続き、夜逃げしなくてはならなくなった話や、大正時代、水道工事の時に、御神木だったボダイジュを切ろうとして災難が続き、水道管の経路を変えなければならなかった話などが残っています(『杉並の伝説と方言』著者:森秦樹 発行:杉並郷土史会 1980年)。
戦後、生活が直接自然に対峙(たいじ)しなくてもよくなり、夜が明るくなって一般に生活する人々の樹木に対する畏怖(いふ)心や禁忌は廃れました。しかし、中には不可解な現象が起こることもあり、樹木をあつかう植木屋さんなどは、古い木を切るときや、神社の御神木の枝おろしをするときには御神酒をかけたり、塩を盛ったりして木を尊重しています。
東京都のある墓園で、無縁墓に根を張った大きなイチョウを改葬のために切ったところ、担当者が熱にうなされてお祓いをしてもらって治った話や、道路建設の障害となるため江戸時代からある大きなエノキを切ろうとしたところ、現場に事故が続き道路の中央に木を残さざるを得なかった話などは枚挙(まいきょ)に暇がありません…。
※写真の木は本文とは関係ありません。
さて、昔は伝説や言い伝えなど人々の心に拠(よ)る所の多い、ある意味身近な(?)祟りであったのに比べ、現代は地球温暖化という科学的な現象によって人間界に祟りを起こしているとは言えないでしょうか。江戸時代の人々が今の温暖化を予測してさまざまな祟りを恐れあるいは創造して、それを禁忌に結果的に木や森を守っていた…、わけではないと思いますが、そのことでうまく自然と折り合いをつけていた昔の人々と、自らを律する仕組みを失ってしまった我々と、どちらが幸せなのかは考えさせられるところです。