今は美しい日本庭園式の公園になっているが、旧大田黒邸はかつては鬱蒼(うっそう)と木々が生い茂った森のようだったそうだ。その中の邸宅に住んでいた大田黒元雄氏は、数々の音楽評論を残しているが、いくつかのエッセイも書いており、そこから大田黒氏がなかなかの趣味人で、おしゃれにも精通していたことがうかがえる。氏が残したエッセイをいくつかのぞいてみよう。例えば、「ハンカチイフ」の章では、こんなことを書いている。
「日本の女の名前にはよし子とかゆり子とかYではじまるのが中々多いので頭文字の刺繍されたハンカチイフを土産などに買って歸らうとする時にはロンドンでは手に入れにくい。ところがフランスにはイヴォンヌなどという名前があるのでパリにはYの字のついたのをいくらも売っている。」(『随筆集 気楽な散歩/第一書房発行』1934年刊より)
当時、イニシャルの刺しゅうつきのハンカチを女性のおみやげにするとは、欧州留学の経験も手伝い、ずいぶんスマートな人だったのだろう。後年、ラジオのクイズ番組のレギュラー解答者となり活躍したが、その語り口もまたダンディで人気だったという。
大田黒氏は、生前自宅で、友人知人を招いて定期的にサロンコンサートを開いていたそうだ。自宅での演奏会にもかかわらず、洗練されたコンサートプログラムが用意されており、その装丁は版画家である長谷川潔氏によるもの。裕福な家庭に育ち、芸術を愛し、趣味も本格的に楽しんだ大田黒氏ならではの凝りぶりだといえよう。このコンサートプログラムは、現在大田黒公園の記念館に展示されており、その実物を見ることができる。
ちなみに、長谷川潔氏は、黒田清輝や岡田三郎など一流の芸術家から教えを受け、フランスで長く活躍した著名な版画家である。フランスの文化勲章を受章し、日本でも勲三等瑞宝章を受章、フランスで逝去。渡仏以来、一度も日本に戻ることはなかったという。
洋館に佇むアンティーク・スタインウェイ
そのサロンでおそらく何度となく演奏されたことであろうピアノが、今も洋館に残っている。かつて大田黒氏の仕事部屋でもあったという、園内の洋館にある、スタインウェイ(Steinway & son)社のものだ。ピアノに刻されている製造番号を現在ニューヨークにあるスタインウェイ本社に問い合わせたところ、今から100年以上前の1900年、西ドイツハンブルグ工場にて製造された「B型」と呼ばれるタイプのもので、同年の5月26日にイギリスのロンドン支店に出荷された1台である、ということが分かった。外装は、マホガニーの象嵌細工で仕上げられている。西ドイツで作られ、ロンドンの店頭に並んでいたピアノが、いつしか海を越えて大田黒氏の元にやってきたのである。
すでに100歳を超えるこのピアノは、どのような音色を奏でるのだろうか。ピアノ修復師の山本宣夫さんによれば「大田黒記念館のスタインウェイピアノは、1900年製ですので、もともとそんなに大きな音量の出せるピアノではなく、1900年頃のサロンでのコンサートにも適した豊かで深い低音、柔らかな旋律を奏でる中高音を持つピアノとしてつくられたものです。大田黒記念館の1900年のスタインウェイは、今ではとても作れない音を持つ、極めて希少価値のあるピアノと言えます。」だという。
▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 特集>公園に行こう>区立大田黒公園
すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>杉並の景観を彩る建築物>大田黒公園記念館(旧大田黒元雄邸)
PDF:大田黒公園のピアノに関する基本的情報(240.3 KB )
実はこのスタインウェイは、1979年の大田黒氏没後、杉並区に寄贈されて以来、展示用の調度品として置かれるのみで演奏されることはなかった。しかし2000年、調律師である関島裕さんによって、その音色がよみがえる。関島さんが携わることになったきっかけをうかがうと、「きっかけは、読売交響楽団でも活躍なさっていらしたフルーティストの斎藤賀雄さんでした。私は、斎藤さんのご自宅のピアノを長年調律させていただいていたのですが、当時斎藤さんは、荻窪でフルートを教えていらしたのです。その生徒さんの中に、「座・大田黒」(大田黒公園周辺のまちづくりやコンサート活動などを行っている区民グループ)のメンバーの方がいらして、大田黒氏寄贈のスタインウェイのピアノがあるという話が出て、それを斎藤さんから伺ったので、では一度見てみましょう、ということになって、それ以来のお付き合いになります。おそらくこのピアノは、大田黒氏の生前中は(中野区の)鷺宮にいらした「杵淵さん」が見ていらしたのでしょう。杵淵さんももうお亡くなりになられましたが、スタインウェイの調律といえば、杵淵さんの右に出る者はいない、という方でしたから。しかし、大田黒さんが亡くなってから、ずっと展示されるだけで置いておかれたということでした」と話してくれた。「杵淵さん」とは、杵淵直都さん(1979年没)のことで、有名各ホールコンサートの調律を手掛けていた日本を代表する調律家だという。
ピアノの弾き心地
ちょうど夏休みの頃で時間もあったことから、関島さんはこのピアノに出会うことになる。見てみると、音は全部半音下がっているような状態で、5~6本弦が切れたりしたが、関島さんの献身的な調律によって、演奏できるまでの状態によみがえった。
そして2000年11月に、例年文化の日の頃に開催されている「景観まちづくりコンサート」での演奏が実現した。実際に、このサロンコンサートでスタインウェイを演奏した区内在住のピアニストであり文筆家でもある青柳いづみこさんは、「このピアノは、華やかな音色と深みのある明るさを兼ね合わせています。古いピアノは、弾き手も曲も選ぶもの。タッチが軽くて、ガブリエル・フォーレやジャン・シベリウス、ドビュッシーのピアノ曲などがよく似合いますね。大田黒公園のピアノは、趣味のよい文化人が好んで演奏したという価値があります。そのピアノにふさわしい使い方がされてゆくといいですね。」 と、このピアノの弾き心地を語ってくれた。
ふとしたきっかけから調律に携わることになった関島さんは、以来月に1度の割合で大田黒公園を訪れ、ずっと面倒を見続けてきた。が、ピアノの老朽化が進み、調律だけでは、演奏される楽器としてのコンディションを保つのが困難になっているという。「このピアノは、夏場はまだよいのですが、冬場は暖房の乾燥などにより弦が切れやすくなり、音も下がってしまったりします。ピアノの中のアクションも、使われているフェルトが虫に食われていたり、スプリングが折れたりしてきています。これまでかろうじてもっていましたが、以前は低音部だけだったのが、中音部も下がってしまうようになりました。ピアノの老朽化が進んでいて、演奏に耐えるのが、かなり難しくなってまいりました」
数十年の時を越えてよみがえった音色は、老朽化に伴いまた失われつつある。その音色を守ろうと、区内在住の音楽家や区民により、2008年春、「大田黒公園のピアノを守る会」として修復運動が始まった。
ピアノの修復費用の募金活動
日本を代表する音楽評論家の遺品であり、楽器としても希少な価値を持つピアノの音色を守ろうと、区内在住の声楽家やチェリスト、ピアニストなどの音楽家、区民が中心となり、2008年春に「大田黒公園のピアノを守る会」が発足した。
区民の思いから立ち上がったこの修復活動の設立を記念して、5月末には記念コンサートが開かれた。そのコンサートの収益や、当日会場で販売された絵葉書の売り上げなどが、ピアノの修復費用に充てられる。目標は400万円。募金は、2008年12月31日まで続けられた。
修復の長き旅に出発
修復のための募金活動から約1年、目標額には達しなかったが杉並区の補正予算でピアノを修復することになった。スタインウエイは、脚を外され、全体に専用のキルティングなどで厳重に梱包されてトラックで修復作業所のある神戸へと出発した。当日は、写真のような快晴。デリケートな楽器を運ぶにはちょうどよい日よりであった。
現在、歴史的に貴重なピアノを専門に手がける専門の修復師により、このピアノに必要な各部材を海外から取り寄せしている最中との報告があった。100才以上のスタインウエイの修復は、部品一つにもこだわりと個性があり決して簡単な作業ではないが、2009年春には美しく蘇り再び朗らかな音色で聴衆を楽しませてくれることだろう。
2009年12月13日、大阪府堺市の山本宣夫氏の工房を訪ねた。作業に当たるのは山本氏とアシスタントの波多野みどり氏のお二人。
約100歳というピアノを修復するには、現代のピアノの修復より更に繊細で専門的な知識と経験、技術が必要。山本氏はウィーン国立美術史美術館所蔵の歴史的なピアノの修復にも携わってきた、知る人ぞ知る歴史的ピアノ修復の専門家。安易に新しい部品を使わず、当時の音色と外観を再現できるよう、手間ひま惜しまず極力オリジナルの楽器の素材を活かしてピアノを再生していく。
まず、大田黒氏ゆかりのピアノの修復スケジュールの概要は以下の通り。
1.鍵盤を本体から外す
2.弦を外す
3.チューニングピン
(弦を響板に固定し音の高さを微調整する)を外す
4.フレームを本体から外す
5.響板のひびに薄い板をはめ込み修復する
6.フレームを本体に再び固定する
7.チューニングピンの埋まっていた穴に木を埋めピンを挿し直す
8.弦を張り直す
9.外装の寄木細工のはがれた部分を修理
10.調音、調律
この日の作業は、フレームをピアノ本体から外すところ。金属製のフレームは、88鍵分の何トンにもなる弦の張力から木製のピアノを守るための頑丈な枠で、重量は少なくとも150kgにはなる。1900年当時のヨーロッパに、楽器という贅沢品にもかかわらず、このようなしっかりしたフレームを製造しピアノに使う技術があったことに驚いた。
-フレーム外し-
まず、フレームと本体を固定している数十個のネジを一つ一つ慎重に外していく。百年間一度も外されたことのないネジなので、サビが結構ついている。次にフレームの2ヵ所をしっかりとロープで固定し、工房の2階に備え付けてあるクレーンでフレームを引き上げる。ここでバランスを崩しピアノにぶつかろうものなら、ピアノの命は一巻の終わり。うまくバランスを取り無事ピアノから外されるまでの一時間ほどの間、ピリピリと緊張した空気が伝わってくる。
無事フレームが外された後の響板には、HER MAJESTY THE QUEEN-REGENT OF SPAINや、HIS MAJESTY THE KING OF ITALY、HIS MAJESTY THE EMPEROR OF RUSSIAなどなど、そうそうたるスタンプがずらり。日本で言うと「皇室御用達」のようなお墨付きの印だそうだ。
2010年1月31日、響板と脚元の外装部品の修復が行われた。
-響板の修復-
響板は、ピアノの音色や響きを決める大事な要素となる一枚の木の板。この響板にひびが入っているため、埋木をする。使用する埋木材(薄く長い木のスライス)は、このピアノと同じく約百年前の別のピアノの響板から一枚一枚削り取ったもので、真横から見ると楔形になっている。この形が重要で、埋め込んだ後に圧力がかかって抜けにくく、響板の強度を上げるとのこと。埋木材が入る角度にひびの部分を少しずつ削っていき、埋木材を埋めて接合する。ちなみに、埋木材が新しい木だと、切られて百年経過している木より水分が多いため、経年で縮み率が高くなりまた新しいひびの原因になる。そのため、強度を維持するためには同じくらいの経年、同じ素材の木材を使うことが大事なのだそうだ。この響板の修復方法は、モーツァルトの時代に実際に行われていた手法そのままだという。
-外装部品の修復-
外装素材が剥がれ、バラバラになってしまっている部品を接合する。この工房で歴史的ピアノの修理に使われる接着剤は、ボンドではなく全て膠(ニカワは、動物の皮革や骨髄から採られる強力な糊)だ。茶色いザラメ砂糖のような外見の膠は、恐らく兎の脂が原料だろう。これを適度な濃度になるようお湯に浸けてふやかし、湯煎でかき混ぜながら溶かしていく。完全に溶けるまでには結構時間がかかり、獣の体臭独特の匂いが工房に漂う。膠は、すぐに冷えると固まってしまい接着しないので、接合する部分の木材を丁寧にドライヤーで温めてから一気に溶かした膠をブラシで隙間なく塗り接合し、急いでまた別の板の間にはさみ固定器具で固定する。横からはみ出た膠が固まらないうちに拭き取り、完全に接着するまで数日間置く。
この日の作業だけを見学していても、合理化され、マニュアル化された現代の生産システムとは対極にある、気の遠くなるような「手仕事」の連続。「こんな気の遠くなるような作業ばかりだと全然儲けになりませんね」との私の軽口に、山本氏は「でも、歴史に残る仕事だからね」と応じた。その職人魂に強く胸を打たれた。