三原堂

西荻窪 三原堂の誕生

西荻窪にある三原堂の初代店主は、田中吉雄。1921年(大正10年)ごろに故郷の新潟県小千谷市から上京し、和菓子店で修行を始めた。奉公先は人形町の老舗和菓子店である三原堂の四ッ谷にある支店、四谷 三原堂だった。
修行を積んだ後、自らの店を開店する場所として選んだのは西荻窪。開店した1935年(昭和10年)当時は駅はあったものの、まだ畑ばかりで何もないところだった。そのような場所を初代店主が選んだ理由は今となっては定かではないが、関東大震災の後に都心から移り住んできた人が近隣に多く、除々に住宅地として整備がなされている最中であったため、将来は多くの人が暮らす町に発展するだろうと見込んでのことと思われる。

初代店主、田中吉雄(左端)

初代店主、田中吉雄(左端)

当時の注文表

当時の注文表

アイディアと工夫が老舗の秘訣

西荻窪 三原堂の初代がこの地に店を開き、その後戦争などを経て厳しい時代を生き抜き、老舗と呼ばれるまでになったのは、初代のアイディアと工夫なしには語れないと三代目店主の田中好太郎氏はふり返る。おじいちゃん子だった三代目は、幼少の頃より、よく祖父から当時の話を聞かされていた。

まず、開店したばかりの三原堂がどのようにお得意様を増やしていったかというと、顧客からの注文をとるために毎朝、漆塗りの重箱を「見本箱」として、そこに和菓子の見本を何種類も詰め、住宅街にあるお宅を一軒、一軒回り、御用聞きにでかけたという。御用聞きで注文をいただいた和菓子は、午後には顧客に届けていたという。現代で言うところの、デリバリーサービスを行っていたのだ。また、繰り返し利用してくれるお得意様には、特典を付与するポイントカードをいち早く取り入れていた。このように様々な工夫と努力により、お客様からの信頼を得ていったのだった。

初代のアイディアと工夫により、順風満帆に見えた西荻窪 三原堂だが、やはり戦時中と戦後は、苦しい時代となった。和菓子の原料となる米や砂糖、小豆は配給制となってしまう。当時の記録によると、原料が手に入らないために和菓子が作れず、店を休んだという日も多々あった。太平洋戦争が始まると和菓子の製造・販売は不可能となり、桃井の中島飛行機製作所に動員された。戦争が終わっても和菓子を作る状況にはなく、サンダルやおもちゃを作って棚に並べ、和菓子作りが再開される日が来ることを待ち続けながら、苦境を耐え忍んだという。

西荻窪 三原堂の新たなる挑戦

高度成長期とともに西荻窪の街は栄え、同様に西荻窪 三原堂も地元に根付いていった。二代目が店を継ぎ、その後現在の店主である三代目が店を継いだのは2009年。三代目は、学校を卒業すると会社員という道を選び、和菓子店とはまったく関わりのない生活をしていた。二代目が体調を崩し入院し、店の存続が危ぶまれた時にも、三代目は店を継ぐ気はなかったという。そんな折り、初代が修行した、西荻窪 三原堂のルーツでもある四谷 三原堂が閉店するという話を耳にして寂しさを感じた。また、バブル期以降の開発で、西荻窪の商店街の店も随分と様変わりしている。西荻窪 三原堂と一緒に苦しい時期を共に戦い、活気のあった頃には喜びを分かち合った商店街の店の中にも、閉店を決断した店も出てきた。しかし、子供の頃からの馴染みの人や、同年代の人たちが商店を継いで頑張っているのを見て気持ちが動いてきた。そこで改めて西荻窪 三原堂がこの地域に何をもたらしたのか、地域の人々から何を期待されているのかを考えた。初代が築き、長年かけて地域の人から愛される店となった西荻窪 三原堂をこのまま途絶えさせる訳にはいかないと思い至った。悩んだ末に自分が三代目として、西荻窪 三原堂を継いで行く決心をした。
会社員だった頃にはマーケティングを担当していたという三代目。その三代目が目指す西荻窪 三原堂はどのような店なのだろうか。「一時期だけヒットするような話題性のあるお菓子ではなく、季節を感じたり、また日本の文化や伝統を感じたりする昔ながらの和菓子を作っていきたい。また、普段あまり和菓子と馴染みの無い世代に向けて、情報発信していけるような店にしたい」。西荻窪 三原堂の挑戦は、これからも続く。

店舗情報

<西荻窪 三原堂>
住所:西荻北3-20-12-103 電話:03-3397-3998/FAX:03-3397-3997
営業時間:9:00~19:00 定休日:日曜定休
最寄駅:JR中央線 西荻窪駅北口徒歩1分

▼関連情報
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DATA

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