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2バラを植えた当時の先生と生徒に聞く

アンネのバラを植えた当時に生徒を指導した先生-小林桂三郎さん

小林桂三郎さんプロフィール
1930年(昭和5年)群馬県生まれ。元・中学校国語教諭。児童文学者。1973(昭和48)年、高井戸中に着任。1974(昭和49)年より、生徒による「アンネ・フランクに寄せる手紙編集委員会」の指導に当たる。『りんごになった茂くん』(小学館)、『イラスト中学生川柳1~4』(汐文社)など著書多数。日野市在住。

アンネと同学年の「軍国少年」
小林桂三郎さんが、アンネの日記を初めて読んだのは1952年(昭和27年)。日本で最初の翻訳版が出版されたばかりのことだった。「私は、1929年生まれのアンネと同じ学年に当たります。アンネが隠れ家で青春を送っていた頃、私は校庭でワラ人形を銃剣で突く練習をする軍国少年でした。アンネはジャーナリストになる夢を持ちながらナチスに殺されたが、私は15歳で終戦を迎えるまで『お国』のために死ぬことばかり考えていた。しかし、戦争は終わりガラリと世の中は変わった。」

子どもの表現力を引き出す「コバセン」
1953年(昭和28年)、小林さんは中学校の国語教師となった。終戦時の自分と同じ年齢の生徒を教えるようになり、子どもたちに生きることの大切さを伝えたいと強く思ったという。「子どもたちを自分のような軍国少年にさせない、それがアンネに対する私の誓いでした。」
小林さんには生徒がつけたニックネームがあった。「教師時代は『小林先生』を略して『コバセン、コバセン』と呼ばれていました」と微笑む。そんな生徒に慕われる教師だった小林さんは、ジュニア川柳指導の第一人者として多数の著書を持つ児童文学者。教師時代は毎日新聞主催の作文コンクール中央審査員を務めていた。子どもの表現力を引き出す優れた指導者「コバセン」の下で、区内の生徒たちは平和への思いを書き綴ることになる。

胸の中にいるアンネに手紙を書きなさい

小林さんが大事にしたのは、生徒の自主性だった。「初めて泉南中の授業で『アンネの日記』を教えた時、アンネに手紙を書いてみろと言っても、生徒たちは『もういない人だから書けないよ』というのです。弱ったな、と思いました。『では、目をつぶって自分の胸の中にいるアンネに手紙を書きなさい。この手紙については点数評価しないから、自由に書きなさい。』そんなやり取りからスタートしました」と、小林さんは当時を振り返る。
「高井戸中では、歴史学習を重視しました。日本と戦争の関係を考えるため、平頂山事件、万人抗、花岡事件などの資料をプリントして配りました。生徒たちに、アンネの悲劇を遠い国の出来事として捕えてほしくなかったのです。」小林さんの思いに応えるように、生徒たちは平和について自ら考え行動する力を身に着けていく。文集編集委員を募集する際にも、生徒が自分の意志で参加することが大切だと考えた。クラスで手を挙げさせると、友人の目を気にしてしまう子もいる。そのため小林さんは「希望者は放課後に図書準備室に来なさい」と呼びかけた。掲載する手紙の選定も、編集委員の生徒たちに任せた。「当時、一学年に500人近くの生徒がいて、そのうち、私は半分のクラスで国語を教えていましたから約250通の手紙がありました。42名の編集委員が二人一組になってすべての手紙を読み、皆で選んでいきました。当時はコピー機がありませんでしたから、印刷はガリ版刷りの手作業です。編集・印刷・製本まで生徒たちの手で行いました。」

生徒の中にある「平和への願い」を信じて
そして、生徒の中から「アンネのバラを高井戸中に」という提案が出されることになる。「W君から『平和のシンボルとしてバラを植えたい』と言われた時には、そこまで考えていなかったので正直困ったな、と思いました」と小林さんは笑う。しかし、小林さんは生徒の力を信じた。「『いい考えだけれど自分の満足だけでは困る。学校全体で賛否を考えられるように工夫しなさい』と話し、まずは編集委員会で議論するように伝えました。すると生徒たちは、手分けして朝のホームルームの前に全クラスに行き、バラを植える意義を説明して全校の賛同を得ていったのです。アンネのバラを入手する方法も生徒たちが話し合いました。」
「卒業した生徒たちがバラを校庭に植えた際にも、私は毎日新聞の作文コンクール審査会があり、立ち会えませんでした。当日の夜、代表してバラを運んだA君から『緊張して熱を出してしまった』と電話をもらい、様子を聞きました。すべて生徒たちの頑張りです。」そう語る小林さんの横顔には、生徒の力を深く信頼し励ましてきた教師の表情が浮かんでいた。

続く生徒の取り組みと本の出版

その後も、小林さんの授業で生徒たちはアンネへの手紙を書いた。1978年(昭和53年)には、後輩たちが文集『アンネのバラよ いつまでも』をまとめ、アンネのバラは数十輪の花をつけた。文集の編集委員たちは、朝日新聞社から「銀座で開催される『アンネの日記展』開会式に出てほしい」と招待を受け、全校生徒が折ったオットー氏に贈るための千羽鶴を持って参加した。この催しにオットー氏は体調不良で参加できなかったが、後日、文集や千羽鶴に対するお礼の手紙が届いた。この年、9月22日放映のTV番組『徹子の部屋』に小林さんが出演するなど、多数のメディアが高井戸中のアンネのバラについて取り上げた。
1982年(昭和57年)には、『アンネ・フランクに寄せる中学生の手紙―アンネのバラよ いつまでも(小林桂三郎・編)』が小学館から発行された。この本には、生徒の手紙やオットー氏からのお礼の手紙が掲載されている。現在絶版だが、高井戸図書館に所蔵があり、館内で読むことができる。

このバラは「善意のバラ」
小林さんは、その後他校に転任するが、再び高井戸中に戻り、1994(平成6)年に同校で教師生活を終えるまでアンネのバラの取り組みに関わり続ける。アンネのバラの歴史を振り返る時、小林さんは思う。「アンネのバラは平和のバラであると同時に、人々の善意のバラです。取り組みを支えたのは、『アンネと同世代の子どもたちの平和への願いを叶えてあげたい』という、たくさんの人々の善意の協力でした。もちろん、バラを植えただけで平和が実現するわけではない。しかし、美しいバラを見ながら『どうしたら戦争を防ぐことができるのか』、一人ひとりが考えて行動してほしい。バラは植えただけでは枯れてしまう。同じように、平和は人々の努力で守っていかなければ途絶えてしまう。決して向こうから歩いて来ないのです。」

教え子の高原美和子さん、アンネのバラ・サポーターズのメンバーと

教え子の高原美和子さん、アンネのバラ・サポーターズのメンバーと

アンネへの手紙を文集にまとめた当時の生徒-高原美和子さん

高原美和子さんプロフィール
1961年(昭和36年)生まれ。1976年(昭和51年)高井戸中卒業。在学中「アンネ・フランクに寄せる手紙編集委員会」のメンバーとして活動。現在、区立高円寺中学校・国語教諭。杉並区在住

アンネと自分を重ねあわせた中学時代
インタビューの最初、高原さんは当時の国語教科書と一緒に、1冊の『アンネの日記』を取り出した。「国語の授業で『アンネの日記』を学習した後、小林先生に『教科書に載っているのは一部だから本を買って全部読みなさい』と言われました。自分と同世代のアンネに気持ちを重ねあわせて読んだことを今でも覚えています。私たちの父母はアンネと同世代。家庭でも戦争体験が語られていました。また、当時はベトナム戦争の真っ最中で、今の中学生より、戦争と平和の問題を身近に感じる機会が多かったと思います。」そんな中、高原さんたちは「身近にアンネがいるように書きなさい」という小林先生の呼びかけに答えて手紙を書き文集を作る。「アンネを死に追いやったナチス・ドイツと日本は同盟軍だった。アンネの死と私たちは本当に無関係と言えるのか、どうして戦争が起こるのか、真剣に考えさせられました」

自問自答して歩いた図書室までの廊下
そんな高原さんだが、「アンネ・フランクに寄せる手紙編集委員会」に加わるには葛藤があったという。当時は受験期。小林先生の「やるかやらないか決めるのは自分。希望者は放課後、自主的に図書準備室に来なさい」という言葉を胸に、図書室までの廊下を自問自答しながら歩いた。「『やれ』という自分と『やらなくても済むじゃないか』という自分がいた。葛藤して廊下を歩きながら、『やらなければアンネの心を誰が引き継いでいくのか』と強く思ったのを今でも覚えています。」そして高原さんは編集委員のメンバーに加わる。

仲間と作った文集の思い出
「これが私が書いたアンネへの手紙です。小林先生が大切に保存しておいてくれました。」
文中、高原さんはアンネに、こう呼びかけている。「あなたは私と同じ年の時に隠れ家生活を始めたのですね。一番食べたい時に食物がなく、一番飛び回りたい時にじっとがまんをし、一番傷つきやすい時期に、大きなとても悲しい経験をし、どんなにつらかったことでしょう。」戦争をする人間の愚かさに触れ、自分が何ができるか真剣に考えた手紙は、今も読む人の胸を打つ。原稿用紙に鉛筆で書かれた手紙には、小林先生の添削が入り、右上に編集委員の選考結果の〇や△が記されている。「残念ながら、この手紙は文集に選ばれませんでした。編集委員だからと特別扱いはなく公平な審査だった。」と高原さんは語る。
高原さんが仲間と作った文集『暗い炎の中に』の表紙は、たくさんの手が何かをつかもうとしている様子が描かれている。「版画の作者Tくんは、『手は色々なものを作り出す。下の方に書いた手には亡くなった人たちの無念の思いを表した。上の方の手は平和を作り出す僕たちの手だ』と言っていました。版木なので字を逆さまに掘らないといけないのに、そのまま掘ってしまい、やり直すという中学生らしいエピソードもありました。」

上:高原さんの書いた手紙 下:本『暗い炎の中に』表紙の版木

上:高原さんの書いた手紙 下:本『暗い炎の中に』表紙の版木

今も人生を励ましてくれるアンネのバラ

アンネのバラが高井戸中にやって来た時の思いを高原さんは、こう語った。「何かスゴイことをした、という思いは不思議となかった。バラを見て静かな感動はあっても、何か照れくさいような気分でした。」むしろ、大人になって感慨深いものがあるという。「中学生が良くやったな、と思います。」
当時、多くの生徒が感動したアンネの言葉に「勇気と信念のある人は、決して不幸の中で死にはしません(1944年3月7日の日記より)」という教科書掲載の一節がある。高原さんは、くじけそうになると、この言葉を思い出すという。「子育てと仕事との両立、両親の介護など人生には色々なことがありました。怠けそうになったり、落ち込みそうになったり。しかし、なぜか自分がトーンダウンしている時、不思議とアンネのバラの取材依頼が来るのです。どこかでアンネが見守っていて、人生の節目で今も私を励ましてくれている気がします。」

人間の成長に関わる仕事をしたい
今、高原さんは小林先生と同じ、中学校の国語教師として教壇に立っている。「あの時、編集委員に加わっていなかったら、平和について深く考えることもなく大人になっていたでしょう。アンネは日記で『もし、神さまが私を長生きさせてくださるのなら、私は社会に出て、人類のために働きたいのです』と書きました。アンネは死と向き合いながら、そんな言葉を発する強さを持っていた。私が人間の成長に直接かかわる仕事をしたい、と教員を目指したのもアンネの影響があったと思います。」
高原さんは、後輩たちへ次のようなメッセージを語った。「アンネが生きていれば『世の中の役に立ちたい』という希望を実現していたはず。このバラには、死を前にして未来を見つめていたアンネの平和への願いが込められている。バラを守ることは、アンネの願いを引き継ぐことだと思ってほしい」
※文中引用:『アンネの日記』皆藤幸蔵・訳(文藝春秋)より

DATA

  • 取材:内藤じゅん
  • 撮影:みっこ
  • 掲載日:2014年02月24日