さまざまな事情から、いったん生徒の手を離れてしまった「アンネのバラ」。しかし、2004年(平成16年)、生徒の自主組織「アンネのバラ委員会」が結成され、先輩からの平和のバトンは再び受け継がれた。委員会発足時の先生と生徒、そして現・委員長に話を聞いた。
大浦眞治さんプロフィール
元・高井戸中学校教諭。2004年(平成16年)~2008年(平成20年)までアンネのバラ委員会の顧問として生徒を指導。現在、区立杉森中学校に勤務。アンネのバラ・サポーターズの一員として生徒を援助している。
生徒の自主性を育てた平和学習の取り組み
大浦さんが高井戸中に着任した時、アンネのバラは元・PTA会長の横山早苗さんを中心に保護者や地域の人が世話を引き受けていた。生徒にもバラの手入れへの参加を呼びかけるが、生徒の意識は「お手伝い」という感じだったという。そんな中、前任校で大浦さんが平和教育に関わっていたと知った保護者の鳥生千恵さん(現・アンネのバラサポーターズ代表)から、「生徒たちの中にはアンネのバラの由来を知らない子もいる。子どもたちが再びバラを守る活動ができるよう力を貸してほしい」と声がかかる。大浦さんが農学部出身の理科の先生だったこともあり、技術的にも生徒を援助していただけないか、という依頼だった。
「当時、生徒にアンネ・フランクを知っているか質問すると、知らない子が多かった。広島への原爆投下の日を正確に言える子も少ない。時代の変化とはいえ、これで良いのかと。」そこで大浦さんは総合学習の時間を使って学習を始めた。「とにかく、絵本やマンガでも良いからアンネに関する本を1冊読みなさい、と呼びかけるところからスタートしました。」その後も平和学習を続け、生徒たちは次第にアンネのバラを再び自分たちで世話したいと考えるようになる。そして2学期の初め、横山さんはじめ地域の人々の協力を得て、生徒の自主組織「アンネのバラ委員会」が発足する。その後、大浦さんは、地域のアンネのバラ・サポーターズの一員としても活動。昨年からは委員会に出て生徒を援助している。
広野萌(はじめ)さんプロフィール
初代委員長。当時、卓球部所属。現在、早稲田大学文化構想学部4年。(写真:左から2人目)
三澤元気さんプロフィール
元・生徒会長。当時、陸上部所属。現在、早稲田大学商学部4年。(写真:右)
奥山裕貴さんプロフィール
元・生徒会役員。当時、ゴルフ部所属。現在、慶應義塾大学法学部4年。(写真:左)
アンネのバラとの出会い
3人は2004年(平成16年)4月、高井戸中に入学。「毎朝の登校時に意識せざるを得ないくらい、バラは美しい輝きを持っていました。」(広野さん)最初は、なぜバラがあるのか知らなかった広野さんと三澤さんだったが、「当時、大浦先生たちが積極的に行っていた平和の特別講義で、アンネ・フランクの生涯やバラの由来を知りました。」(三澤さん)一方、奥山さんは入学前から「アンネのバラ」の存在を知っていたという。「小学6年生までポーランドに住んでいて、アウシュビッツの強制収容所跡やアンネの生家を訪れていました。その時『アンネの日記』を読み、インターネットの情報で兵庫県にアンネのバラの教会があることを知りましたが、まさか自分が入る中学校に咲いているとは。不思議な縁を感じました。」(奥山さん)
12人から100名規模の活動へ
2004年(平成16年)9月1日、生徒によるバラの手入れとアンネのバラを通した平和交流と学習を目的として、アンネのバラ委員会が発足した。広野さんは、学校代表として高井戸中のアンネのバラを全国に広げていきたいと、1年生ながら委員長に就任した。「先輩たちから『平和のバトン』を引き継がなければ、と。当時、毎日学校に来てバラの手入れをしてくれていた横山さんにフォローしてもらい、自分たちで世話を始めました。」(広野さん)委員たちは毎週集まり、自分たちでバラ手入れのスケジュールと担当を決めた。休み時間に水やりをし、夏休みも毎日、当番制で世話をした。運動部と掛け持ちしている委員も多く、練習の合間に水やりや穴掘りをしたという。「お前たちも手伝えよ、と言うと部活の仲間が作業に参加してくれた。どんどん委員が増えていきました。」(三澤さん)発足時12名だったメンバーは、3年生になる頃には約60名となり、手伝ってくれる生徒を含めると100名規模の活動となった。
生徒たちには二つの合言葉があった。「それは『自ら育てバラを途絶えさせない』、もう一つは『自ら学び平和を考えていく』というものでした。」(奥山さん)委員たちは、大浦先生から広島、長崎への原爆投下について学び、被爆地・広島で現地の生徒と交流する。当時、広野さんが毎週発行していたニュースが、その様子を伝えている。「原爆の子の像の前で広島市立宇品中学校の皆さんと平和の交流を行いました。『手をつなぎ合って永遠に幸せを守り続けるように、私たちの手で育ててきた平和の象徴アンネのバラを託します』と言葉を添え、私たちはバラ2鉢を贈呈しました。宇品中学校からは唄の贈り物があり、平和記念資料館にて悲惨で残酷で苦悩に満ちた歴史を知ったばかりの私たちには、胸にくるものがありました。(「アンネのバラ委員会報告」2005年(平成17年)4月8日号より)。」広島の中学生から贈られた「ねがい」という唄は、こんな一節で始まる。「もしもこの頭上に落とされた物が/ミサイルではなく本やノートであったなら/無知や偏見からときはなたれて/君は戦う事をやめるだろう」世界で今なお絶えない紛争を思い、平和を願う歌詞だ。「今でも、その唄のフレーズを、はっきり思い出します。」(奥山さん)この訪問をきっかけに、アンネのバラをもっと大切に育てていこうと委員たちは思ったという。
さらに広野さんと三澤さんは、その夏、杉並区が募集した「日韓中高生交流会」に参加。ハングル語や韓国の文化・歴史を勉強し、韓国を訪問した。広野さんは名刺の裏にアンネのバラのドライフラワーを添えて現地で配り、三澤さんはバラの写真を見せて韓国の人に自分たちの活動を伝えた。「現地に行くことで、戦争と平和について満ち溢れている情報の本質を、自分で見極めていく大切さを知りました。」(三澤さん)
知らないことに踏み込む勇気を
2006年(平成18年)3月、委員たちは自分たちの活動の集大成として活動記録のパンフレットを作成する。奥山さんは、写真と編集・レイアウトを一手に引き受ける。「自分と同世代のアンネがナチスの支配下、死の恐怖と隣り合わせで残したメッセージを、僕たちは引き継がなければならない。先輩たちから続くアンネのバラの物語を、当事者として、このパンフで後輩に伝えていきたい、と。」(奥山さん)
取材修了後、広野さんと三澤さんは、当日行われた「アンネのバラ委員会」に出席し、在校生たちと交流した。2人の話に真剣に聞き入る現在の委員たちを前に、広野さんは思う。「アンネのバラは自分に、知らないことに踏み込む勇気をくれました。その精神を在校生が受け継いでくれたら。」
現在、1年生から3年生まで20数名の委員の代表を務めるのは、2年生の鈴木千学さんだ。
「今日、2人の先輩の話を聞き、自分の思いと重なりました。世代が変わってもアンネのバラを守りたいという気持ちは同じです。」鈴木さんの千学(せんがく)という名前は、第二次世界大戦中、リトアニアで外交官を務めた杉原千畝から一字を取ったという。ナチスの迫害から逃れる多くのユダヤ人にビザを発給し「日本のシンドラー」と呼ばれた人物だ。「入学してからアンネ・フランクの生涯を知り、自分に何ができるか考えました。平和の大事さは誰もが認識しているが、具体的に何をすればいいのかは難しい。でも、高井戸中には身近にアンネのバラがある。このバラを守っていこう、と。」学校の代表として、他校にアンネのバラを贈る活動にも積極的に取り組んでいる。
現在、将棋部に所属。ほとんどのメンバーが部活や塾との掛け持ちで忙しい中、委員会運営の方針を考えるのは、苦労も多い。「でも、春と秋のバラの一般公開中に、たくさんの方が来て下さるとき、やりがいを感じます。まずは、『きれいなバラだな』と鑑賞してほしい。そこから入って花の由来を知ってもらい、アンネのバラに込められた願いの重みを伝えていくことが大切だと思っています。」