ボクシングは沖縄本島の興南高校で始めました。それまではテレビでも見たことはなかったし、体も小さく、けんかも弱かった。ただ動きは良かったんじゃないかな。高校で友達に誘われてボクシング部に入り、3ケ月後の新人戦でいきなり決勝まで進みました。ボクシングの技術はなかったけど、動きと粘り、それと我慢強さがあった。島の生活で鍛えられたんですよ。高二で全国大会に進出し、1973(昭和48)年、高三のインターハイ・モスキート級で優勝しました。
卒業後はオリンピックを目指して、大学の推薦入学が決まっていました。しかし、東京のジムにいた先輩から強引に誘われて、上京した空港からそのまま千駄ヶ谷の協栄ジムに連れて行かれました。進学を諦めてジムに入った2か月後、プロデビュー戦で牧公一さんと対戦しました。2戦目も牧さんとやり、どちらも苦戦しましたね。
その頃の手取りは1万5千円ぐらいで、飯田橋のトンカツ屋で住み込みのアルバイトをしていました。チャンピオンになってからも5回防衛まではそこにいて、電車でジムに通っていました。僕がいるおかげで店の売上は倍になったんですよ。
1976(昭和51)年10月、デビュー9戦目でWBA世界ジュニアフライ級チャンピオン、ファン・ホセ・グスマンに挑戦し、7回KO勝ちで沖縄初の世界王者になりました。そしてタイトル奪取後、4年半の間に6連続KOを含む、世界戦13回連続防衛を果たしました。どんどん試合を組まれたから、年間4試合もやった時期がありました。現在の防衛戦は年間2試合ぐらいなので、30歳すぎてもやれる時代になりましたね。
僕は減量の苦労はあまりなかったけど、昔は計量が当日だったので、無理な減量による怪我や事故も多かった。当時のグローブは小さかったから、自分の拳を痛める怪我もよく起こりました。小さいグローブでパンチをもらうと効くんですよ。当たると倒れるものだから、みんな早く当てようとしてKO勝ちが多く、試合がおもしろかった。1発もらっても3発当ててやるという覚悟でやらないといい試合はできません。逃げたら駄目なんですよ。
1981(昭和56)年3月、地元の沖縄での初めての試合。相手は前回の防衛戦で勝っていたペドロ・フローレス選手です。この試合でなぜ負けたのかよくわかりません。7ラウンドまでにダウンも取っていましたし、立ち上がりは良かったんです。でも8ラウンド以降、いいパンチを目にもらって距離感がつかめなくなった。ハプニングに近かった。そのあとは自分が何をしたらいいのかさえわからなくなり、12ラウンド終了時、セコンドに「駄目だ」と伝えました。次のラウンドでタオルが投げられ、ゴングの音を聞いて「終わった」と知りました。自信のある試合だったので、負けた瞬間はがっかりしましたよ。本当にボクシングは何が起こるかわからない。僕のボクシングは沖縄で始まって沖縄で終わったんです。神様がそうさせたんだからしょうがないね。
悔いはまったくなく引退
その後リターンマッチの話があったけれど、結局、同門の渡嘉敷勝男選手をぶつけさせました。結果、ベルトを取り返してくれた。今振り返ってもあの1敗で辞めて良かったと思います。負けた後、僕は立ち上がれなくて、ボクシングどころか運動をする気力もなかった。失ったものを取り戻すのは大変なんです。リターンマッチを何回もやっている人はいるけど、僕は悔いはまったくなかった。それぐらい、これまで頑張ってきたんですよ。そして26歳で引退しました。
1995(平成7)年、40歳の時に白井・具志堅スポーツジムを代々木に設立し、5年後西永福に移り、今年で20年目になります(※1)。ジム経営も、チャンスもあればピンチもあります。いい選手に恵まれるかどうかですね。これまでに日本チャンピオン、東洋チャンピオンが誕生しました。女性の世界チャンピオンも誕生したけれどタイトルを失いました。女子の試合はテレビ中継もないし(※2)、まだ浅いですね。男性の世界タイトルマッチに女子の世界戦を入れたらいいのにね。しずちゃん(南海キャンディーズ)もたまに練習に来ますよ。次のオリンピックを目指してアジア予選を勝ち抜いてもらいたいですね(※3)。
これから世界チャンピオンを目指すために
最近の若い世界チャンピオンは小学生からボクシングをやってますよ。野球やゴルフと同じように子供の時から始めないとチャンピオンにはなれない。世界チャンピオンになった井上尚弥選手も、中学・高校時代に両親と横浜からこのジムに来てスパーリングをしていました。素質があって条件が整えば海外に出るのがいいですね。プロはやはり世界に発信していく必要があると思います。
国際ボクシング殿堂入り(※4)
2014(平成26)年末に僕の殿堂入りが発表されました。2015年6月に授与式があるのでニューヨークに行ってきます。その1週間はパレードがあって、世界中からボクシングファンが集まり、街全体がにぎやかになるらしいですよ。このニュースをきっかけに、子供たちにももっとボクシングを知ってもらいたいですね。
※1 2020(令和2)年7月31日をもって、白井・具志堅スポーツジムは閉館 -2020年9月17日 加筆-
※2 最近は女子の試合もテレビで紹介されている -2015年12月10日 加筆-
※3 しずちゃん(山崎静代さん)は2015(平成27)年10月に引退を表明 -2015年12月10日 加筆-
※4 国際ボクシング殿堂:ボクシング界に多大な功績を残した人物を称えるために1990(平成3)年に創設された。米ニューヨークに本部を置く。モハメド・アリ氏ら過去の名ボクサーが名を連ねる
デビュー間もない時期は、先輩に連れられて高円寺の沖縄料理の店によく行きました。この前テレビの取材で久しぶりに行きましたが、今でもちゃんとありましたよ。
子供が生まれたころから浜田山に住んでいます。現在はランキング選手や練習生もこの近くに住まわせ、大きな公園があるのでロードワークをよくやっています。僕は日課で朝晩、ワンちゃんと一緒に西永福から神田川を散歩してるんです。真っ白な犬で名前はグスマン。最初の世界タイトル戦で勝った相手の名前でね、顔が似てるんですよ。今では僕より人気あるんじゃないかな。
よく近所の焼肉や焼鳥、中華にも行きますね。商店街で見知らぬおじさんに声をかけられて、話を聞いたりしてますよ。午後3時頃の空いている時間に、独りでカラオケで歌ってます。蕎麦屋も一人でこっそり行きます。テレビの収録が終わって家に帰ってきたら近所しか行かないですね。僕は地域密着です!
高井戸には大乃国さんのところの若い相撲取りがいるんですよ。見かけるとよく声かけてます。今後、杉並からいろんなスポーツのチャンピオンを生み出したいね。力入れて欲しいなぁ。
取材を終えて
テレビのバラエティ番組で大活躍中の具志堅用高さん。実は日本人最多防衛記録を持つ元ボクシング世界チャンピオンだ。試合の話になると人が変わったように眼がきらきらと光り、昨日のことのように丁寧に話す姿はテレビのユニークなキャラクターとは違っていた。沖縄で始まったボクシング人生はたった一つの敗戦で終わったが、まったく悔いはなかったとの言葉は意外だった。頂点を極めた世界で男が燃え尽きるとはこういうことかもしれない。また、地元杉並での生活ぶりは、積極的に地域に関わっているようで、本当に杉並が好きなんだなぁと感じた。
▼後日談
2015年6月14日(日本時間15日)、ニューヨーク州カナストータで「国際ボクシング殿堂」の表彰式が開催され、具志堅さんが英語を交えて感謝の言葉を話すと、現地の人達から大きな拍手と歓声が起こった。それは世界で超一流のボクサーと改めて認められた瞬間だった。
-2015年12月10日 加筆-
具志堅用高 プロフィール
1955年沖縄県石垣市生まれ。沖縄県立興南高等学校卒業。1973年インターハイ・モスキート級優勝。1974年5月プロデビュー。1976年10月ファン・ホセ・グスマンを破りWBA世界ジュニアフライ級を奪取。その後13回連続防衛したが、これは現在でも破られていない日本人最多防衛記録。生涯戦績は24戦23勝1敗。
引退後は解説者、タレントとして活躍する傍ら、1995年に日本人初の世界チャンピオン・白井義男氏と共同で「白井・具志堅スポーツジム」を設立。現在は会長として後進の育成に励む。故郷の石垣島に具志堅用高記念館がある。