本記事の執筆にあたり貞明皇后が幼児期を過ごした大河原家の大河原章雄氏に、ご協力と監修をいただいた。
貞明皇后は九条道孝公爵の第4女節子姫として、1884(明治17)年6月25日に千代田区神田錦町で誕生。1888(明治21)年11月に赤坂の九条家に戻る5歳(※1)までの幼児期を高円寺の大河原家で過した。華族女学校在学中の1900(明治33)年2月、17歳(※1)で東宮(大正天皇)妃に内定、同年5月挙式。大正天皇とは仲むつまじく、慣例を打ち破って自ら陛下の身辺のお世話をされたという。皇子を4人もうけ、皇族の一夫一妻制確立に寄与された。
また明治天皇皇后であった昭憲皇太后の後継者として蚕糸・絹業を奨励、ご自身も養蚕(皇后御親蚕)に取り組まれた。救癩(※2)事業に尽くし、不自由な生活を強いられている灯台守を支援されたことでも知られる。和歌・漢詩にも造詣が深く、作品は宮内庁書陵部編『貞明皇后御集』に収められている。1951(昭和26)年5月17日、狭心症により大宮御所で崩御された。
※1 年齢は、参照文献に倣い、数え年を記載
※2 救癩(きゅうらい):ハンセン病患者を救うこと
節子姫が大河原家に里子に出された理由は、他の華族同様、九条家でも当時、子を里親のもとで健康に育てることが習わしとなっていたためである。そこで農家ながら顔役で旧公家・大名の館に出入りし、奉公人の口入れ稼業などを行っていた大野喜三郎・かね夫妻(高円寺南1丁目)に相談がされた。その結果、近隣の大河原金藏(きんぞう)・てい宅で男の子が生後まもなく亡くなっていたことから、十分な乳を与えられるていが乳母として適役という話が浮上した。
大河原家は、江戸時代の安永7(1778)年から文化1(1804)年まで先祖の友右衛門が名主を、その後も代々村役人を勤めた由緒正しい旧家であった。関係者の健康状態を確認したうえで、正式にていが節子姫の乳母に決定。九条邸に参上したていに対し、道孝公は直々に「姫を自分の子と思い、何事も遠慮なく育ててくれ」と頼んだという。
お七夜の日(生後7日目)に大河原家に預けられた節子姫は、約4年半にわたり、同家の娘よしと姉妹同然に育てられた。近所の子供たちとも分け隔てなく仲良く遊び、もの覚えがよく、きわめて聞き分けのよい姫君であったと伝えられる。生まれつき信心深かったていに倣い、仏壇を毎朝拝むなど、信仰心も幼い姫の心に植えつけられていった。後に皇后・皇太后となられた時、その徹底した信心深さで周囲の人々に強い印象を残したとされるが、その土壌は高円寺で培われたものであろう。
1888(明治21)年11月に赤坂の九条家へ帰った後も、高円寺の自然や生活の中で育まれた物おじしない明るい性格は、英照皇太后(九条道孝の実姉、節子姫の伯母)からも愛されたと伝わる。
また女学校時代にも毎年、初夏にはたけのこ掘り、秋にはくり拾いにと大河原家を訪れる習慣が続いた。夏休みに「乳母(ばあ)やのお料理を食べに来ました」と数日間泊まり、本当の実家に帰ったようにのびのびとした生活を楽しんだという。
1900(明治33)年2月11日、17歳の節子姫は東宮(大正天皇)妃に内定。その数日後、「妃になれば平民の家に遊びに行けなくなるから」と大河原家を訪問し、ていの手料理を召しあがりながら、「これが最後ですね」と寂しそうにつぶやかれたとのこと。金藏は「お姫様が御所にお入り遊ばされても、じいが作った野菜を御所にお届け致します」と約束。大河原家からはその後、毎年、たけのこ、白うり、なす、かぼちゃ、くりなどの初ものを東宮御所、後に宮中に献上する習わしとなった。ご生涯を通して、武蔵野の土にまつわる縁が続いたといえよう。
また幼少期を過ごした高円寺で、節子姫は養蚕に興味を持ち、女学生時代には、大河原家から蚕をもらってきて育てられていたと伝わる。このような経緯と、青山にあった英照皇太后の養蚕場を継承するご決心などが重なり、養蚕は貞明皇后(皇太后)の終生の事業として知られることとなる。1947(昭和22)年、大日本蚕糸会総裁に就任、1917(大正6)年に次いで1948(昭和23)年には高円寺の蚕糸試験場の2回目の視察をされた。その際には、研究成果を親しくご覧になり、「一層研究に励むように」との言葉を下されたとのこと。同一の施設を2回訪問されることは珍しく、貞明皇后の研究熱心なお姿をほうふつとさせるものである。
大河原家では現在でも、貞明皇后が訪問された1948(昭和23)年の面影をとどめつつ庭や建物を保全。また皇子誕生を知らせる電報や御下賜(かし)品、お形見等、貞明皇后にまつわる貴重な品の数々も大切に保存している。
お手植えのオトメツバキ
1888(明治21)年春、5歳になった姫が、近所の縁日の植木屋の前を通りかかったところ、美しく咲いていた梅とツバキの鉢植えを大変気に入られた。これらを「私が水やりをします」と買って帰り、約束通り毎日世話をなさったとのこと。後にこのツバキは姫が大河原家の庭にお手植えされ、同家の丁寧な手入れの下、樹齢120年を超える現在でも毎年ピンク色の美しい花を咲かせている。
御親筆の色紙
1900(明治33)年2月、東宮(大正天皇)妃に内定された姫は、大河原家をご訪問後、御親筆の色紙を金藏夫妻に贈られた。
「むげに幼なかりしほど 住みける里のことども思い出でて 節子」
というお詞書(※3)の後に、
「昔わが住みける里のかきねには 菊や咲くらむ 栗や笑むらむ
ものごころしらぬほどより育てつる 人のめぐみは 忘れざりけり」
としたためられている。
※3 詞書(ことばがき):和歌の前につけ、作歌の時や所、事情などを簡単に説明する文章
御下賜品の数々
1917(大正6)年5月29日の第1回目の蚕糸試験場訪問の際は、ていに拝謁を仰せつけられ、試験場において、親しいお言葉と共に御下賜品を授けられた。
その後、1926(大正15)年12月25日に大正天皇は崩御。貞明皇后は皇太后として、多摩御陵への御参拝を例年の習わしとされた。途中、お召し列車は中野駅から徐行して大河原家の前を通過、同家では5色の吹流し(長旗)を建物上に高く立て、門前に当主が正座して奉迎申し上げるのが例であったと語り継がれている。また1948(昭和23)年10月19日には皇太后自らが約15分間同家の庭に立ち寄られた。1888(明治21)年に同家より九条家にお帰りになられてからちょうど60年の月日が流れており、皇太后は昔をしのばれて感慨深げにいろいろお話しになったという。当時中学生だった大河原章雄氏によれば、「奉迎申し上げた大河原幸作夫妻とその子供7人らそれぞれが、背広の生地やインクスタンド、積木等を賜り、皇太后は子供たち1人1人に名前と年齢をお尋ねになられた。」とのことである。
このように里親への心遣いに満ちたご生涯をおくられた貞明皇后について、当時の同家当主大河原幸作氏は「下情に通じ、国民の模範であられた」と『杉並郷土史会報』に記している。
『貞明皇后』(主婦の友社)
『母宮貞明皇后とその時代―三笠宮両殿下が語る思い出』工藤美代子(中央公論新社)
『国母の気品 貞明皇后の生涯』工藤美代子(清流出版)
『杉並歴史探訪』森秦樹(杉並郷土史会)
『杉並郷土史会報』杉並郷土史会