1950年代、隅田川に架かる言問橋(ことといばし)の西岸に貧しい人々の集落、通称「蟻の街」があった。北原怜子(きたはら さとこ 1929-1958)は、その「蟻の街」で廃品回収業を営む共同体「蟻の会」の運営を手伝い、そこで生活する子供たちのために活動したクリスチャンの社会奉仕家だ。自身も廃品回収をするバタヤ(廃品回収業者)となって「蟻の街」で暮らし、病と闘いながら人々に尽くして28歳の短い生涯を終えた。
自己犠牲をいとわず貧しい人々と共に生きる姿が注目されて、怜子は「蟻の街のマリア」と呼ばれるようになり、映画(※1)や舞台にもなった。また、亡くなって半世紀以上経た2015(平成27)年、遺徳がローマ教皇フランシスコにより認められ、日本人女性としてはただ一人「尊者」の称号を得て、改めてカトリック信者の崇敬を集めた。
杉並で生まれ育った怜子は、高円寺にある光塩女子学院の設立母体、べリス・メルセス宣教修道女会で洗礼を受け、洗礼名を「エリザベト・マリア」という。当時の怜子を知るべリス・メルセス宣教修道女会のシスター(修道女)や、アリの街実行委員会代表の話を交え、その半生を紹介する。
1929(昭和4)年、怜子は大学教授の三女として、東京府豊多摩郡杉並町馬橋(現杉並区阿佐谷南)で生まれた。その後、一家は東京市杉並区松ノ木町(現杉並区松ノ木)に転居。屋敷には、バラのアーチや桜、梅、柿、椿、つつじや亜熱帯の植物が植えられ、近隣の人たちからは「お花屋敷」と呼ばれていた。怜子はピアノの練習の合間に屋敷の庭で近所の子供たちと遊んで過ごしたという。本人は音楽学校への入学を強く希望していたが、両親の助言に従って諦め、その代わりに高価なドイツ製のピアノを買ってもらうという裕福な生活を送っていた。
1941(昭和16)年、両親の勧めで桜蔭高等女学校(現桜蔭中学校・高等学校)に入学。第二次世界大戦末期の1944(昭和19)年には、学徒動員により中島飛行機株式会社の三鷹研究所で旋盤女工として働く日々を過ごす。昼夜三交代で就業した女学生たちは、衛生状態の悪い環境にあり肺結核で亡くなる者も多く、怜子も健康を害する。
終戦後、1946(昭和21)年に昭和女子薬学専門学校(現昭和薬科大学)に薬剤師を目指し入学。物のない時代に就学し実験実習にも事欠く学生時代を過ごした。在学中、新教育体制(※2)への移行に際し、薬科大学の認可に必要な備品を買いそろえるため教授や学生らと共に資金集めの運動に参加。低価格で卸してもらった薬品や、自分たちで作った石鹸(せっけん)を売り歩いた経験は、後に「蟻の街」の運営資金集めに生かされたという。
怜子は昭和女子薬学専門学校を卒業後、光塩女子学院初等科に通う妹の肇子(ちょうこ)の送り迎えをしていたという。
ある日、肇子を教会に連れて行く途中、白い修道服をまとった若くて聡明そうな日本人修道女に出会う。怜子はこの修道女に憧れと親しみを抱いて、当時光塩女子学院の敷地内にあったべリス・メルセス宣教修道女会でカトリックの教理を学び始める。そして、メルセス会独自の誓願の第四誓願(※3)に大きな感銘を受け、1949(昭和24)年に受洗してそれ以後の日々をクリスチャンとして生きた。
当時を知るべリス・メルセス宣教修道女会のシスター・中野佐和子さんは、怜子の思い出を次のように語ってくれた。
「私は光塩女子学院の高校生でした。怜子さんは昭和女子薬学専門学校を卒業なさって時間があったらしく、当時の洋式の大きな玄関で妹さんの送り迎えをする怜子さんの姿をよく見かけました。大人しい方でしたから、私たちが騒いでいるのを見ても黙ってにこやかにほほ笑んでいらっしゃいました。ただ、“修道院に入りたい”と折に触れておっしゃっていたので、いずれお入りになるのだろうと思っていました」。中野さんの言葉から、静かで控えめでありながらも修道女になると固く決意した怜子がしのばれる。喪服を着て十字架を首にかけた怜子の写真は、決意を固めた頃に撮られたものと推測されるが、肺結核のため修道院に入ることは叶わなかった。
1950(昭和25)年、一家は姉の嫁ぎ先の墨田区浅草花川戸(現台東区花川戸)の履物問屋の隣に転居。これにより、怜子を育んだ杉並での生活も終わる。
「蟻の街のマリア」としての素地
北原家をさかのぼると、学問の神様として知られる菅原道真と共に大宰府(だざいふ)に下った神官にたどり着く。小さな頃から清らかなものへの憧れが強く、巫女(みこ)や修道女にひかれたという怜子自身のことはその著書『蟻の街の子供たち』にも書かれている。また、怜子の父・北原金司(きたはら きんし)は、札幌農学校時代のキリスト教色が残る北海道帝国大学(現北海道大学)に学び、今で言うフリースクール「遠友(えんゆう)夜学校」で貧しい家庭の子弟に無償で勉強を教えていた。怜子が「蟻の街のマリア」となって貧しい人々に希望を与え生きたことは、このような背景からも納得できるのではないだろうか。
ゼノ・ゼブロフスキー(1898-1982)は、日本中を巡り戦災孤児の救済に力を尽くしたポーランド人修道士だ。「蟻の街」の人々とも交流し、子供たちを助ける活動を続けた。
1950(昭和25)年、ゼノ修道士は「蟻の街」に向かう途中、怜子の姉の嫁ぎ先である履物問屋に偶然立ち寄った。彼は怜子がクリスチャンだと知ると、「タクサン オイノリ タノミマス」と一言残して立ち去ってしまうが、この出会いが怜子を「蟻の街」へと導いていく。
怜子はゼノ修道士が教会を造ろうとしているのを新聞記事で知り、勇気を振り絞って、人々が近づこうとはしない「蟻の街」まで彼を訪ねて行った。ゼノ修道士は怜子を受け入れ、貧民街が見渡せる場所へ案内する。怜子は、その光景を見て受けた衝撃を次のように記している。
「真っ暗な岩山のような間から、点々として、淡い灯がもれてくる風景は、日本の首都の真中とは信じることができませんでした。(中略)私は、そういう貧しい人々が、自分の家から一町と離れていないところに、何百人、何千人と住んでいることすら知らなかったのです。(中略)初めて、一生かかってもやりきれない程、大きな、しかも、知った以上は一日も捨てておけない、大切な仕事が目の前によこたわっていることを発見しました」(出典:『マリア怜子を偲びて―その愛は永遠に』)
蟻の街での奉仕活動
1950(昭和25)年、怜子は貧しい人々を助けることを自らの使命と悟ってゼノ修道士と共に奉仕活動を始めた。最初「蟻の街」の人々は怜子に冷たかったが、献身的に働く姿を見て受け入れるようになっていった。1952(昭和27)年には、それまでの裕福な環境から出て、自分も街の住人となり一緒に生活しながら活動を続けた。子供たちに勉強を教え、「蟻の街新聞」を作り、夏休みに貧しい子供たちを海に連れて行きたいと考え必要な大金をリヤカーを引いて工面するなど、怜子は「蟻の街」に無くてはならない人になっていく。
中野さんは当時を振り返って次のように語った。「戦後は、たくさんの人々が貧しく困っていました。それを見て社会奉仕活動をする人も大勢存在しました。心ある人であれば助けたいと思うのは当然のこと。私も光塩女子学院を卒業したら奉仕活動に参加しようと思っていました」
1953(昭和28)年に三笠書房(のちに聖母の騎士社)より出版された書簡集『蟻の街の子供たち』からは、子供たちが希望を持って暮らせるようにとの願いを持って活動した怜子の様子や、成長していく子供たちの日々の姿が読み取れる。だが、「蟻の街」に対し、東京都は隅田公園からの立ち退きを何度も求めてきた。1958(昭和33)年に肺結核が悪化し、死が目の前に迫る中にあっても、怜子は立ち退きを回避するため祈り続け、嘆願書と共にこの著書を提出したという。怜子の死後、「蟻の街」は江東区潮見の代替地に移転して存続することになるが、その一助となった本でもある。
その他、共に活動に関わった松居桃楼(※5)の『アリの町のマリア 北原怜子』や、北原金司が父親として見た怜子を書いた『マリア怜子を偲びて―その愛は永遠に』など、怜子に関する本が刊行されている。
「アリの街実行委員会の取り組み」
北畠啓行(きたばたけ ひろゆき)さんが代表を務める「アリの街実行委員会」は、怜子やゼノ修道士の功績が広く知られるように活動している民間団体だ。「アリの街実行委員会」では、これまで2度「ゼノさんと北原怜子さんとアリの街写真資料展」を開催。2018(平成30)年には写真80点、資料40点が展示され、オープニングセレモニーではポーランド共和国大使やローマ法王庁大使が参列し、光塩女子学院の生徒によって聖歌が歌われ、改めて次の世代に怜子を語り継ぐ意思を確認するものとなった。また、2019(令和元)年には、ゼノ修道士を主人公にした舞台「風の使者ゼノ~アリの街のマリアとともに~」が日本・ポーランド国交樹立100周年記念事業として上演され、活動は国を越えて広がりを見せている。2020(令和2)年、怜子の命日に当たる1月23日には「蟻の街」のあった隅田公園の一角に献花台を設け、追悼式が行われた。北畠さんは今後について、「大きな活動でなくてもこれからも続けていきたい」と力強く語ってくれた。
「我は主のつかいめなり 仰せのごとく我になれかし」は、怜子が常に心に留め置いた聖句だ。時代は大きく変わっても変わらないものがあると信じたい。90年ほど前に杉並に生まれ、クリスチャンとなって自らの信じる道を信仰を持って突き進み、若い命を燃やし尽くした怜子。書物や新たな活動を手掛かりに怜子に思いをはせ、深く探求されてみてはいかがだろうか。
北原怜子 プロフィール
1929年 現在の東京都杉並区阿佐谷南で誕生
1941年 桜蔭高等女学校入学
1946年 昭和女子薬学専門学校入学
1949年 光塩女学院附属聖堂でアルベルト・ボルト神父より受洗
1950年 ゼノ修道士と出会い、「蟻の街」で活動を始める
1952年 「蟻の街」の住人となり活動を続ける
1953年 『蟻の街の子供たち』を出版
1958年 蟻の会にて死去し多磨霊園に埋葬
※1 映画:1958(昭和33)年、松竹製作の「蟻の街のマリア」。千之赫子(ちの かくこ)主演
※2 新教育体制:戦後の占領政策の中で行われたGHQ(連合国軍総司令部)主導の教育改革。大きな改革として六・三・三・四制が行われた
※3 第四誓願:べリス・メルセス宣教修道女会の「必要とあれば友のため自分の生命をも捧げ献身を尽くす」という生き方
※4 ルルド:フランス南部のカトリック教徒の間で聖域とされる場所で、治癒力のある泉が湧くという
※5 松居桃楼(まつい とうる):早稲田大学出身の劇作家。蟻の会会長・小沢求や北原怜子と共に蟻の街の運営に携わる。主に対外的な法務を担当し、「先生」と呼ばれた人物
『蟻の街の子供たち』北原怜子(聖母の騎士社)
『マリア怜子を偲びてーその愛は永遠に』北原金司(八重岳書房)
『アリの町のマリア 北原怜子』松居桃樓(春秋社)
『蟻の街の微笑み 蟻の街で生きたマリア北原怜子』パウロ・グリン著 大和幸子編(聖母の騎士社)
『風の使者・ゼノ神父』石飛仁(講談社)
『ゼノ死ぬひまない』松居桃樓(春秋社)
『貧困の戦後史 貧困の「かたち」はどう変わったのか』岩田正美(筑摩選書)
『ふだん着の肖像 昭和20-30年代を彩った100人』笹本恒子(新潮社)
<協力>
中野佐和子さん(べリス・メルセス宣教修道女会シスター)
尾﨑越子さん(べリス・メルセス宣教修道女会シスター)
北畠啓行さん(アリの街実行委員会代表)