原田さんは、1944(昭和19)年、日本大学第三商業学校(現日本大学第三中・高等学校)を卒業後、警視庁消防部に採用され、消防官として杉並消防署配属となった。太平洋戦争が3年目に突入し、日本の敗色が色濃くなってきた頃である。年末には大規模な本土空襲が始まり、原田さんは新米消防士ながら、空襲の被害から人や町を守る過酷な職務を担うことになった。「当時、空襲に備えて消防士の大募集があって、岩手、青森など地方からも採用していた。杉並消防署の本署があったのは、今の天沼陸橋(荻窪4丁目)あたりだ。消防士は消火だけでなく、建物疎開(※1)のための取り壊しも行った。主に消防署、警察署、学校など目立つ建物の周りや、建物が密集している地域の家屋を取り壊したが、立派な家がたくさんあって壊すのが惜しかったことを覚えている。本署に3台あった消防車のうち、1台は破壊消防用だった」
山手大空襲(※2)の大きな被害
1944(昭和19)年11月24日に荻窪界隈が杉並初の空襲を受けるが、当時の荻窪は田んぼが多く被害も少なかったとのこと。だが、1945(昭和20)年に入ると、小さな空襲が散発的に繰り返され、消火活動が忙しくなってきたそうだ。「杉並は夜間空襲が多く、焼夷弾が使われた。弾の中に油の固まりが入っていて、火がついたまま散らばるものだから、消火はかなり難しい。5月23日に、杉並第十国民学校(現杉並第十小学校)が被災した時は、到着したらすでに学校は全焼していた。25日は山手大空襲があり、消火のため青梅街道を走り回っている最中に、自宅は焼けて無くなってしまった。商店街もほぼ焼け野原だ。幸いなことに、家族は裏の空き地に避難していて無事だった」。山手大空襲後は、空襲警報が鳴っても爆撃機の襲来が無いことも多く、夜は静寂に包まれたという。「アメリカの軍艦が九十九里沖から艦砲射撃(※3)を行い、音は聞こえないが、家のガラスがビビビと振動したことがある。静けさの中だから、かえって不気味に感じたものだ」と原田さんは回想する。
1945(昭和20)年8月15日、終戦の日。原田さんは消防署の所長室で、署員全員で終戦のラジオ放送を聞いた。ほっとした気持ちが強かったという。戦後、消防士は仕事が激減し、人余り状態になった。軍隊は解体され、治安を守るのは警察官だけという状況下、消防署が警視庁の管轄だったため、警察官への転官希望者が募られる。原田さんは転官を希望し、警察官として戦後を歩みだすことになった。
その頃は、戦時中よりもひどい食料難で、ほとんどの国民にとって食料の確保が日々の最重要事項だったそうだ。原田さんも買い出しに精を出す。「今日は警察官としての職務、明日は買い出しといった感じだった。食料を求めて、世田谷の千歳烏山や西武線沿線の農家に足を運んだ。当時は今と違い、太っているのが良いとされていて、そのような人を見ると、どこの闇市で食料を手に入れたのか気になったものだよ」
原田さんの初任地は、赤坂の表町(おもてまち)警察署(現赤坂署)。その管内にアメリカ大使館があり、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥の警備部隊の一員となった。「ついこの間まで敵だった人物に敬礼しなければならなくなり、複雑な気持ちを感じたよ」と原田さんは語る。当時、MP(※4)だけでは占領下の取り締まりが困難なため、通訳のできる警察官の派遣要請が、米軍の東京地区憲兵司令部から出された。警視庁の講習で英語を学んでいた原田さんは志願し、1949(昭和24)年にMPの運転するジープに同乗して取り締まりに協力する通称「MPライダー」となる。「占領軍は都内を管轄しやすいように、重要道路にアベニュー名 (アルファベット)とストリート名(数字)を付けて、無線での指令に使っていた。青梅街道は“Kアベニューと”呼ばれていた。MPライダーの主な仕事には、交通事故時の取り調べや脱走米兵の捜索があった。日本人女性を連れて多摩あたりまで逃げ、農家に隠れている脱走兵を見つけたことがある」と原田さんは話す。
原田さんは1994(平成6)年に、MPライダー時代の体験をつづった『MPのジープから見た占領下の東京』を出版している。MPと行動を共にしたことで見ることのできた占領下の東京の様子が書かれている。杉並に関する描写では、1949(昭和24)年頃に戦災の傷跡が残る青梅街道をパトロールした記載がある。
原田さんは、時代を物語る多彩な品物を保管している。項目ごとに整理された写真、戦時中の新聞、金属供出の家のプレート(※5)、衣料切符(※6)、終戦直後のお札など、興味深いものが多い。「1945(昭和20)年8月1日から30日までの新聞は、とじて保管しているんだ。終戦を境に報道がどう変わったかよくわかるよ」と原田さん。戦時中のものは、防空壕の中に保管されていたため、焼失を逃れたとのことだ。また、築地警察署の歴史を署内報に書いたのをきっかけに文筆活動も行うようになり、4冊の著書を出版した(プロフィール参照)。「文章を書くのが好きなんだよ。警官としての勉強をするよりずっと面白かった」と、原田さんは、時代を記録してきた人らしい言葉で回想を締めくくった。
▼関連情報
スギナミ・ウェブ・ミュージアム>杉並町勉強商工者案内地図(外部リンク)
取材を終えて
91才(取材時)とご高齢の原田さんだが、記憶は驚くほど鮮明だった。回想は匂いや音にまで及び、体験がリアルに伝わってきた。著書の『ある警察官の昭和世相史』に、「消防士としての戦時中の体験は壮絶なものだった」とあるが、当人が直接語る言葉には文章以上の重みがあり、10代のまだ少年ともいえる年齢での体験の過酷さに思いをはせた取材となった。
原田弘 プロフィール
1927年に東京府豊多摩郡杉並町高円寺(現高円寺南2丁目)に生まれる。1944年、警視庁消防部に採用され杉並消防署に配属される。1945年に警視庁警察官へ転官。1949年、警視庁より派遣されて、MP同乗警察官となり、1959年まで務める(途中、中断あり)。1985年に退職。在職中は『築地警察署史』の編さんに関わる。退職後に杉並郷土史会会長を務める(すでに退任)
著書に『銀座故事物語』(新人物往来社)、『銀座-煉瓦と水のあった日々-』(白馬出版)、『MPのジープから見た占領下の東京』(草思社)、『ある警察官の昭和世相史』(草思社)がある。
※1 建物疎開:空襲により火災が周辺に広がるのを防ぐために、あらかじめ建物を取り壊して、防火地帯を作ること
※2 山手大空襲:1945(昭和20)年5月24日未明、5月25日夜間から5月26日にかけて行われた東京の山手地区への大規模空襲。杉並は、5月25日の空襲で被害を受けた
※3 艦砲射撃: 軍艦からの大砲(艦砲)による攻撃。1945(昭和20)年7月18日に房総半島南端の白浜町が艦砲射撃による被害を受け、死者も出ている。原田さんの体験はこの時のものと思われる
※4 MP:アメリカ陸軍の憲兵隊。Military Policeの略
※5 金属供出の家のプレート:武器生産に必要な金属資源の不足を補うため、1941(昭和16)年に交付された金属類回収令に基づき、一般家庭から鍋、釜などの金属製品が供出された。供出した家に配られた、供出済を証明するプレート
※6 衣料切符:1942(昭和17)年より1950(昭和25)年まで、物資不足のために配布された配給制度の切符。衣料購入時に必要だった
『MPのジープから見た占領下の東京』原田弘(草思社)
『ある警察官の昭和世相史』原田弘(草思社)
『戦後70年事業 区民の戦争戦災証言記録集』杉並区区民生活部管理課