原田弘さんが語る、戦前~戦中の思い出

原田弘さんの思い出は時代の証言

「ゆかりの人々」コーナーで紹介している原田弘さん。1927(昭和2)年に東京府豊多摩郡杉並町高円寺(現高円寺南2丁目)に生まれ、1949(昭和24)年から杉並区和田に暮らしている。戦前は消防官、戦後は警察官として勤務した。
語ってもらった少年時代から警察勤務までの思い出は、戦前~戦中の貴重な証言でもある。その中から原田さんが暮らした戦前の新高円寺界隈の様子と、消防官として体験した東京大空襲の惨禍(さんか)を紹介したい。

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※原田さんは2021(令和3)年7月にご逝去されました。故人のご功績を偲び、心からご冥福をお祈り申し上げます。

1964(昭和39)年の東京オリンピックで警備を担当。バックにはスタジアムの大観衆(写真提供:原田弘さん)

1964(昭和39)年の東京オリンピックで警備を担当。バックにはスタジアムの大観衆(写真提供:原田弘さん)

青梅街道沿いの商店街のにぎわい

原田さんの生家は、現在の新高円寺あたりで畳屋を営んでいた。幼少時の街の様子はどうだったのだろう。「当時の青梅街道は、都電が走っていて今よりも幅が狭かった。歩道は無く、道路に沿って商店街が続いていて、生家の畳屋もそこにあった。今の京王バスの杉並車庫のはす向かいあたりで、隣は豆腐屋だった。商店街は食べ物屋が多く、市場(※1)もあり、なかなかのにぎわいを見せていた。1963(昭和38)年に都電が廃止され、道路幅が広がるにつれ店がなくなり、すっかり寂しくなってしまったけれどね」と原田さんは語る。また原田夫人は、義母から聞いたという都電の昔話を披露してくれた。「薬屋が催した祭りで、チンドン屋が出て景品を配っていたところ、都電の運転手が電車を止めて、景品をもらうために乗客と一緒に電車を降りたことがあった、と義母は話していました」。戦前のゆったりした時間の流れが感じられるエピソードだ。

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1952(昭和27)年の新高円寺界隈の様子(写真提供:原田弘さん)

1952(昭和27)年の新高円寺界隈の様子(写真提供:原田弘さん)

戦前の思い出を語る原田夫人

戦前の思い出を語る原田夫人

原っぱは多目的空間

現在のセシオン杉並(杉並区梅里1丁目)のあたりは、昭和の初期には原っぱで、少年時代の原田さんの格好の遊び場だった。「もともと荒玉水道(※2)の鉄管を作るための、東京都水道局の事務所があった場所で、荒玉水道完成後に空き地になり、みんな“鉄管原(てっかんはら)”と呼んでいた。草野球や昆虫採集などして、よく遊んだものだ。高い建物がほとんどなかったから、夕方には富士山が見えた。子供の遊び場以外にも利用されていた。時々軍隊が来て、大砲の空砲を打って軍事演習をしていたのを覚えている」。“鉄管原”には、1937(昭和12)年に現在の杉並第十小学校(※3)が開校しているため、原田さんがそこで遊んだのは10才頃までと思われる。同じ年に日中戦争(※4)が始まり、民家が隣接した場所で行われた軍事演習の話から、日本が戦争に突き進んでいった不穏な時代背景がうかがえる。

高円寺北口付近。1942(昭和17)年撮影(写真提供:広報課)

高円寺北口付近。1942(昭和17)年撮影(写真提供:広報課)

原田さんがスケッチした新高円寺駅開設日の様子

原田さんがスケッチした新高円寺駅開設日の様子

東京大空襲直後の街で見たもの

原田さんは、1944(昭和19)年に警視庁消防部に採用され、消防官として杉並消防署で戦時下の消火活動に従事した。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲(※5)時には応援出動し、空襲後の想像を絶する光景を目の当たりにしている。「四谷見附橋(現JR四ツ谷駅付近)に集合し、下町に向かったが、被災地に近づくにつれ、すさまじい悪臭が漂い始めた。人間が生きたまま焼かれたためだ。道路には死体が折り重なり、それを避けるために車はジグザグに進まなければならなかった。忘れられないのは江東区亀戸のガード下の光景だ。多くの人が、五百羅漢の石像(※6)のようにガードに寄りかかったまま亡くなっていた。東京駅あたりまで戻ってきて、死体を見なくなってホッとしたよ」

空襲に関する記録をまとめたスクラップ帳

空襲に関する記録をまとめたスクラップ帳

東京大空襲と阿佐谷と相撲部屋

原田さんは、東京大空襲が阿佐谷にもたらした意外なものについて語ってくれた。「空襲後に、焼け出された下町の相撲部屋(※7)が、梅里にある真盛寺(しんせいじ)に場所を借りて移ってきたんだ。人気力士を見かけることもあった。しかし、稽古でお堂が傷むため寺を出なければならなくなり、その近所に居を構えた。これが阿佐谷の相撲部屋の始まりというわけだ」。阿佐谷に相撲部屋ができたのは1952(昭和27)年(※8)。1980年代前半には、花籠(はなかご)部屋、二子山部屋、放駒(はなれごま)部屋があり(※9)、横綱を含め上位力士を多数輩出した。相撲部屋の隆盛期には「東の両国、西の阿佐谷」と称されるほどで、阿佐谷は「相撲の街」の顔を持っていた。原田さんは、その始まりの物語を懐かしそうに語ってくれた。

※1 市場:現在の梅里1丁目、西方寺入り口近くにあった橘市場。1945(昭和20)年5月の空襲で焼失した
※2 荒玉水道(あらたますいどう): 大正時代から昭和中期にかけ、多摩川の水を世田谷区砧から中野区野方と板橋区大谷口に送水するために使用された地下水道管
※3 1986(昭和61)年4月に、蚕糸の森公園の隣に移転
※4 日中戦争:1937(昭和12)年~1945(昭和20)年、日本と中華民国(現中華人民共和国)の間の戦争
※5 東京大空襲:1945(昭和20)年3月10日未明、東京の下町を中心に行われたアメリカ軍による大規模な空襲。死者は10万人にのぼるといわれている
※6 五百羅漢(らかん)の石像:仏教で供養尊敬を受けるに値する500人の人々(羅漢)を表現した集団の石像
※7 両国にあった二所ノ関部屋
※8 1950(昭和25)年、両国に二所ノ関部屋が再建され、力士たちは両国に帰ったが、幕内力士の大ノ海は、引退後に縁のあった阿佐谷に芝田山部屋を起こした。1953(昭和28)年に名称を花籠(はなかご)部屋に変更
※9 花籠部屋は1985(昭和60)年に閉鎖、現在は日本大学相撲部の施設になっている。二子山部屋は1993(平成5)年に中野区に移転。放駒部屋は2013(平成25)年に閉鎖
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杉並区がまだ杉並町だった頃の地図

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保管していた記録に目を通し、過ぎし時代を回想する原田さん

保管していた記録に目を通し、過ぎし時代を回想する原田さん

著書。個人史を通して戦後の昭和世相が描かれている

著書。個人史を通して戦後の昭和世相が描かれている

DATA

  • 出典・参考文献:

    『大相撲杉並場所展』杉並区立郷土博物館
    『戦後70年事業 区民の戦争戦災証言記録集』杉並区区民生活部管理課

  • 取材:村田理恵
  • 撮影:NPO法人TFF
  • 掲載日:2019年05月20日
  • 情報更新日:2021年07月08日