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下中弥三郎さん

平凡社の創業者、事典『や、此は便利だ』を大正期に発刊 

下中弥三郎(しもなか やさぶろう 1878-1961)は、人文書や教養性の高い出版物を数多く刊行している平凡社の創業者だ。大正から昭和中期までの時代、労働・教育問題をはじめとする社会運動に参加し、さまざまな活動に名を残した人物でもある。1924(大正13)年から1938(昭和13)年までは杉並に居を構えていた。
同じく杉並で暮らした農の哲学者、江渡狄嶺(※1)の記事を執筆するため、すぎなみ学倶楽部のライターが杉並区立郷土博物館に残された関連資料を調べる過程で、資料の中に弥三郎の名前を発見した。当記事は、弥三郎と杉並の縁がどのようなものであったかという視点も加えて、その生涯を追ったものである。

弥三郎の生い立ち
弥三郎は1878(明治11)年、兵庫県で寺子屋と窯業を営む家に生まれた。しかし2歳のとき、寺子屋の教師であった父が亡くなり、幼くして貧困と労苦の日々を過ごす。小学校も3年で退学し、家業の窯業に従事せざるを得なかった。出生地の下立杭(しもたちくい)村(現丹波篠山(たんばささやま)市今田町下立杭)は、今も立杭焼で知られる窯業が盛んな土地である。弥三郎は15歳で隣村との陶土の権利争議に村代表として出席、17歳にして窯業の販売組合を結成し組合長になるなど、めきめきと頭角を現した。1897(明治30)年、窯業をさらに学ぶために神戸に出るが、故郷の小学校の元教員で、その後神戸市の学務課に勤めていた市職員のあっせんにより、小学校の代用教員に雇われたのち正職員採用試験に合格。そして1901(明治34)年、23歳の弥三郎は『小学校に於ける国語及び其教授法』を自費出版する。これが生涯、多岐にわたる弥三郎の言論活動、ひいては出版事業の出発点であった。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 ゆかりの人々>知られざる偉人>江渡狄嶺さん
すぎなみ学倶楽部 文化・雑学>杉並のさまざまな施設>杉並区立郷土博物館

下中弥三郎、77歳頃の写真(写真提供:平凡社)

下中弥三郎、77歳頃の写真(写真提供:平凡社)

平凡社の誕生、すべての始まりは『や便』

弥三郎は、中学教員資格取得の勉強のために、1902(明治35)年、24歳で上京する。そして、知り合いの講義録の編集などを行うことにより、見聞を広めていった。27歳の時には『婦女新聞』の記者となり、雑誌『児童新聞』の創刊に関わるなど活発に行動し、やがて1914(大正3)年、学生が時事用語が苦手なことをヒントに、近代日本初のポケット事典として評判となる『ポケット顧問 や、此(これ)は便利だ』を執筆。ところが同書を出版した成蹊社が、別の出版物の失敗ですぐに破産してしまった。しかし、弥三郎はひるまず『や、此は便利だ』を妻のみどりの名義で刊行し、同時に自ら出版社を創業。こうして生まれたのが平凡社である。のちに事典シリーズで出版界に立脚する平凡社のルーツは、自ら『や便』と略称した弥三郎のこの本にあった。この時、弥三郎は埼玉師範学校の教員だったが、これを辞し、出版業に本腰を入れる。1923(大正12)年、平凡社を株式会社に改組し、弥三郎が取締役社長に就任する。くしくも、新社屋を神保町に移転したその日に関東大震災に遭い、建物は焼失してしまったが、会社は存続。以後、日本を代表する出版社の一つとして、二度の破産をものともせず、歴史を刻んでいく。

『ポケット顧問 や、此は便利だ』の表紙。この本が平凡社創業のきっかけとなった(写真提供:平凡社)

『ポケット顧問 や、此は便利だ』の表紙。この本が平凡社創業のきっかけとなった(写真提供:平凡社)

中表紙。本のタイトルは、コンセプトを聞いた成蹊社の社長が「や、それは便利な本ですな」と言ったセリフが元になっている(写真提供:平凡社)

中表紙。本のタイトルは、コンセプトを聞いた成蹊社の社長が「や、それは便利な本ですな」と言ったセリフが元になっている(写真提供:平凡社)

『や便』の1ページ。当時の当て字について解説されている。教員や巡査にダイレクトメールで宣伝、通信販売するという先駆的な手法で売り出した後、書店で販売。1年で3万部を売り上げた(写真提供:平凡社)

『や便』の1ページ。当時の当て字について解説されている。教員や巡査にダイレクトメールで宣伝、通信販売するという先駆的な手法で売り出した後、書店で販売。1年で3万部を売り上げた(写真提供:平凡社)

杉並での暮らし、江渡狄嶺との交流

弥三郎は1924(大正13)年に阿佐谷に移住する。この時期、「自治社会」(※2)を探求するようになり、農村にその姿を見出していた弥三郎は、翌年、「都会文化を否定し、農村文化を高調す」などの標語を掲げた「農民自治会」を結成。高井戸で暮らし、農の哲学者であった江渡狄嶺との深い交流も杉並区立郷土博物館にある資料に残されている。狄嶺に関する資料の中で下中弥三郎の名が散見されるのは、狄嶺が創設した可愛御堂(※3)の定例祭の献金・当番名簿や参加者名簿である。これは弥三郎が、亡くなった次女の遺骨を可愛御堂に預けていたからと考えられる。参加者名簿には弥三郎だけでなく家族の名前もあり、一家が足しげく通っていた様子が想像される。時には、定例祭の式次第を記載したプログラムに弥三郎の名が登場し、参加者の前で講話をする姿がうかがえる。可愛御堂の定例祭への参加の記録は1922(大正11)年から1937(昭和12)年であり、その後の狄嶺との交流は不明だ。しかし、農民運動だけでなく、学校無用論を論じ実践していた狄嶺と、教員の経験があり、そのうえ自ら学校を創設しつつも、「無学校主義」(※4)を主張するようになった弥三郎とは、意見を同じくする立場にあったのだろう。また、弥三郎はその思想の初期より「子供は地上における神」と述べているところから、次女の遺骨を預けていた可愛御堂には、単に自らの子供を供養するということだけでない、強い思い入れもあったのかもしれない。

江渡狄嶺が創設した「可愛御堂」の記録簿。定例祭の当番や、献金者の記録に弥三郎の名が多く残されている(資料提供:杉並区立郷土博物館)

江渡狄嶺が創設した「可愛御堂」の記録簿。定例祭の当番や、献金者の記録に弥三郎の名が多く残されている(資料提供:杉並区立郷土博物館)

定例祭の式次第。講話らしき項目に弥三郎の名が記載されている。(資料提供:杉並区立郷土博物館)

定例祭の式次第。講話らしき項目に弥三郎の名が記載されている。(資料提供:杉並区立郷土博物館)

参列者の名簿。弥三郎だけでなく、家族の名前も連なる帳面からは、家族ぐるみでの狄嶺との交流が推測される(資料提供:杉並区立郷土博物館)

参列者の名簿。弥三郎だけでなく、家族の名前も連なる帳面からは、家族ぐるみでの狄嶺との交流が推測される(資料提供:杉並区立郷土博物館)

あくなき理想社会の追究、情熱と行動の人

弥三郎といえば、出版業だけでなく日本の近代思想史にも大きく名を残した存在だ。その思想は変遷を繰り返し、「〇〇主義者」とくくることはできない。だが、弥三郎の思想の根底を貫いているのは、「あくなき理想の教育」「民衆にとってのユートピアとは何か」の追求である。例えば、1920(大正9)年の第1回メーデーで、啓明会(※5)の代表として演説を行い、参加者は弥三郎の作詞した歌を唱和した。また、大正自由教育運動(※6)の推進者でもあり、実験校として、児童の個性の尊重と自発的な学習を教育方針とする「池袋児童の村小学校」を開校している。この学校は、カリキュラムもなければ時間割りもない、という自由さであった。昭和に入ってからは大政翼賛会(※7)協力会の教育出版関係委員長を務めるなどの横顔も見せ、そのため、戦後は公職追放になるが、追放解除後は、世界政府(※8)の樹立を最終目標とする「世界連邦建設同盟(※9)」に参加。1952(昭和27)年に広島で開催された「世界連邦アジア会議」を主催した。また、1955(昭和30)年には「宗教世界会議(※10)」を主催、その準備のためにインドまで足を運び、ネルー首相と会談する。1961(昭和36)年、アメリカのケネディ大統領に世界平和についての要望書を送り、返信の書簡を受け取ったその夜、83歳で死去した。その生涯はどこまでも精力的であった。

▼関連情報
すぎなみ学倶楽部 ゆかりの人々>知られざる偉人>小川未明さん

啓明会の機関誌『啓明』創刊号。内容は弥三郎らの教育論文の他に、小川未明の小説も掲載されており、単なる教育雑誌の域を超えた内容であった(写真提供:平凡社)

啓明会の機関誌『啓明』創刊号。内容は弥三郎らの教育論文の他に、小川未明の小説も掲載されており、単なる教育雑誌の域を超えた内容であった(写真提供:平凡社)

1936(昭和11)年、児童本位の教育を追求した「池袋児童の村小学校」解散式の記念撮影(写真提供:平凡社)

1936(昭和11)年、児童本位の教育を追求した「池袋児童の村小学校」解散式の記念撮影(写真提供:平凡社)

東京裁判のインド代表判事であり、日本人戦犯の無罪を主張したパール博士(前列中央)との会食の様子。弥三郎が晩年尽力した「世界連邦アジア会議」に招聘(しょうへい)した時の写真とみられる(写真提供:平凡社)

東京裁判のインド代表判事であり、日本人戦犯の無罪を主張したパール博士(前列中央)との会食の様子。弥三郎が晩年尽力した「世界連邦アジア会議」に招聘(しょうへい)した時の写真とみられる(写真提供:平凡社)

孫から見た弥三郎像、創業者・人として

「礎ですね」。創業者の弥三郎について、現平凡社代表取締役社長・下中美都氏は、瞬時にそう答えた。「弥三郎は幼くして父を亡くし、貧乏の中で小学校も中退し、窯の火で本を読んで勉強しました。そんな人物ですから、広範な教養や知識に誰もが触れることができるべきだ、誰にも教育の機会があってしかるべきだといった気持ちは大きく、そこから百科事典の発刊といった平凡社の礎を作りました」。さらに美都氏はこう言葉を続けた。「弥三郎の語録に、“ものまなぶ もろびとのため のちのよに のこしおくべき ふみぞこのふみ”という言葉があって、風呂敷にプリントされています。平凡社の刊行物は事典から東洋文庫、新書、別冊太陽まで多岐に渡りますが、創業105年経てもこの言葉の通り、“後の世に残すべき文化を本に”というミッションが今も生きています。もちろん売れる本が出ないと版元としては困るのですが、この志はこれからも受け継がれていくと思います」
また、弥三郎の孫でもある美都氏は、祖父について、床屋に行っても、何か考えつくと頭を半分刈ったまま飛び出してしまう人だったというエピソードを交えつつこう語る。「“人にどう見られるかより、自分がどう考え、どうするか”を尊ぶ人ですね。今は考えが“筋張った”人が増えてきています。弥三郎のような人だったら“まあまあ、君たち”ってそこに割って入っていけるんじゃないかしら」。美都氏は、弥三郎には宗教や主義主張にこだわらない懐の深さがあったと言及し、「それがあったから、さまざまな立場にありながらも、弥三郎は人に受け入れられたのでは」と想像する。
美都氏は5歳の時に祖父を亡くすまで、大田区で一緒に暮らしていた。自宅に今も残る古い束見本(※11)には、「世界は」から始まる思想的な文章の横に、印刷費や広告費などの事務的な計算式がぎっしり書き込まれているという。「晩年には窯も開いていますし、和歌を詠むのが好きな趣味人の面もありましたね」。美都氏は、波瀾万丈の生涯を送った祖父に、そう思いをはせていた。

下中弥三郎 プロフィール
1878年 兵庫県にて誕生
1914年 成蹊社より『ポケット顧問 や、此は便利だ』を出版。同社の倒産により平凡社を創業
1919年「啓明会」を結成
1925年「農民自治会」を結成。機関紙『自治農民』創刊
1940年 大政翼賛会、第四委員会(文化)委員長に就く
1951年 公職追放解除。世界連邦運動に参加
1952年 「世界連邦アジア会議」開催
1961年 米ケネディ大統領に世界平和の要望書を送り、返信の書簡が届いた2月21日夜に83歳で死去。

※1 江渡狄嶺(えどてきれい):1880-1944。東京帝国大学を中退し高井戸にて帰農、「場の研究」を提唱した哲学者
※2 自治社会:近代政府の機能を解体し、農村単位で形成するコミュニティを中心に自治が行われる社会
※3 可愛御堂(かわいみどう):狄嶺の長男は早世した。これを悲しんだ狄嶺は同じ境遇の友人と、幼くして亡くなった子供の慰霊施設を建てて、その中に納骨堂を兼ねた集会所を作り、可愛御堂と名付けた
※4 無学校主義:トルストイの理想主義の影響や農村と都市の学校教育の教育格差への不満から、弥三郎は官公立による教育に異を唱えるようになり、教育は学びの場を地域社会に還元して行うべきと唱えた
※5 啓明会:日本初の教員組合。学習権の確立、教育委員会制度などを提言した
※6 大正自由教育運動:大正期は、大正デモクラシーの風潮を受け、子供の感性や自主性を重んじる教育を実践する教育者が多数出現した時期でもあった。この運動に賛同した主な学校には、成城小学校、文化学院、自由学園などがある
※7 大政翼賛会:1940(昭和15)年に発足した、日本の大部分の政党が合流し政治活動を行った結社。中央本部の下に地方組織を置き、終戦直前まで日本の政治と文化を統制した
※8 世界政府:世界全体の国家の上部組織として、全人類を統治する構想上の政府
※9 世界連邦建設同盟:1948(昭和23)年結成、各国を統合する世界連邦の設立を目指す非政府組織。尾崎行雄が初代会長に就任した
※10 宗教世界会議:冷戦時代、原水爆禁止問題などを発端に、宗教の立場から世界の課題を論ずる目的で開催された会議
※11 束見本(つかみほん):書籍などの制作時、実際に使う紙で作るサンプルの本のこと。中のページは白紙

平凡社代表取締役社長・下中美都氏。弥三郎の胸像の前で色紙を手に

平凡社代表取締役社長・下中美都氏。弥三郎の胸像の前で色紙を手に

自身が企画し発刊した百科事典の前で(写真提供:平凡社)

自身が企画し発刊した百科事典の前で(写真提供:平凡社)

晩年、横浜市戸塚に開いた窯「やさぶろ窯」で作陶にいそしむ弥三郎(写真提供:平凡社)

晩年、横浜市戸塚に開いた窯「やさぶろ窯」で作陶にいそしむ弥三郎(写真提供:平凡社)

DATA

  • 出典・参考文献:

    『下中彌三郎事典』下中彌三郎伝刊行会編(平凡社)
    『平和にかける虹-人間・下中弥三郎』立石巌(岩崎書店)
    『下中彌三郎-アジア主義から世界連邦運動へ』中島岳志(平凡社)
    『私立池袋児童の村小学校要覧』志垣寛 編(教育の世紀社)
    「学校無用論と教育運動-下中弥三郎と江渡狄嶺を中心に-」三原容子『日本の教育史学 教育史学会紀要34』(教育史学会)
    「可愛御堂記録」杉並区立郷土博物館蔵
    「可愛御堂花祭り参会者名簿」杉並区立郷土博物館蔵

  • 取材:ツルカワヨシコ
  • 撮影:ツルカワヨシコ
    写真提供:平凡社 
  • 掲載日:2019年10月15日