プロレタリア文学風土記―文学運動の人と思い出

著:山田清三郎(青木書店)

プロレタリア文学運動(※1)について、詳しく知ることのできる希少本。著者の山田清三郎(やまだ せいざぶろう)さんは「文芸戦線」(※2)、ついで「戦旗」(※3)と、プロレタリア文学運動の代表的文芸誌で、作家、編集者として中心的な役割を果たした。戦後9年が経った時に、文学運動当時のことを振り返り、『プロレタリア文学史』を発刊。近代文学、ことに社会派文学の流れを追い、その中でプロレタリア文学運動の再評価を試みた。本書は、その姉妹版として発刊された随筆集で、山田さんと作家たちとの日々のエピソードが中心に書かれている。金子洋文(※4)、葉山嘉樹、小林多喜二など、杉並ゆかりの作家たちも次々と登場し、その素顔に触れることもできる。
プロレタリア文学運動は、大正末期から昭和初期にかけて、芸術と社会の変革、革命を志向した文学運動だった。新感覚派と並んで、当時の文学界の二大潮流だったが、内では分裂を繰り返し、外からは弾圧を受けて挫折した。本書から、1926(大正15/昭和元)年の日本プロレタリア文芸連盟創立前後の、広く社会主義派の作家たちが集合した、分裂前の一時期についてわかってくる。

▼関連情報
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おすすめポイント

プロレタリア文学運動初期の名作(※5)が「文芸戦線」誌上に発表されていった時期、編集部が一時、高円寺(現杉並区高円寺南)にあったことが記されている。
「文芸戦線」編集部は、当初、雑司ヶ谷にあった。高円寺に移った事情について、「前田河広一郎がいた家に入った」と山田さんは記している。前田河さんは『三等船客』などですでに知られた作家で、「文芸戦線」では山田さんにとって先輩格だった。高円寺に編集部があった時期は、山田さんの記述から1927(昭和2)年頃と推察できる。すぐ近所に、佐々木孝丸さん、林房雄さんも住み、編集を手伝った。
山田さんの回想からは、「林房雄に呼び出されて顔を出すと、ソビエトから帰国したばかりの藏原惟人がいたこと」、「新感覚派の片岡鉄兵が、突然、訪ねてきたこと」、「編集部に住み込んでいた小堀甚二と平林たい子をくっつけようと画策したこと」などなど、作家たちが行き来し、活気にあふれた高円寺の編集部の様子を彷彿させる。

※1 プロレタリア文学運動:プロレタリア(労働者)主体の社会理想、文学理想を掲げた文学運動
※2 文芸戦線:「種蒔く人」を母体に、1924(大正13)年に創刊された。プロレタリア文学運動初期の中心的文芸誌となり、日本プロレタリア文芸連盟創立に発展した。共産主義的立場の作家たちと分裂、少数派となったが、社会民主主義的立場の作家たちにより1934(昭和9)年まで発刊を続けた
※3 戦旗:1928(昭和3)年、創立された全日本無産者芸術連盟(ナップ)の機関誌として発刊された。「戦旗」は、共産主義的立場の作家たちが集合、プロレタリア文学運動の主流となり、発行部数2万部を数えた時期もあった。1931(昭和6)年まで発刊を続けた
※4 金子洋文:小説家、劇作家、演出家。「種蒔く人」の創刊者の一人で、終始「文芸戦線」の中心的存在だった。東宝劇団など、商業演劇の世界でも活躍した。代表作は『地獄』『牝鶏』『飛ぶ唄』など。1923(大正12)年に上荻窪、ついで、1937(昭和12)年に西荻窪(現杉並区西荻北)へ転居、生涯を杉並で暮らした
※5 『セメント樽の中の手紙』(葉山嘉樹)、『林檎』(林房雄)、『苦力頭の表情』(里村欣三)、『二銭銅貨』(黒島伝治)、『施療室にて』(平林たい子)など

DATA

  • 取材:井上 直
  • 撮影:井上 直
  • 掲載日:2020年07月20日