杉並区南荻窪は、映画に出てきそうな古い洋館や風格ある屋敷林が残る町だ。こうした町並みは、なぜできたのだろうか。答えを求めて、2020(令和2)年9月に行われた荻窪地域区民センター協議会主催の野外講座「南荻窪まち歩き」に参加した。
まち歩きの前に同区民センターで、「荻窪の記憶」プロジェクトの松井和男さんによる「南荻窪100年の歴史」のレクチャーがあった。
「この辺りは昭和初期まで畑と雑木林、くぬぎの並木道が続く武蔵野の風景が広がっていました。しかし、1923(大正12)年の関東大震災によって、人口過密だった東京市街から郊外へ移住する人が急増すると、武蔵野の畑や林は宅地へと姿を変えていきます。その宅地化の波が現在の南荻窪を含む井荻村に迫ると、村長の内田秀五郎は重大な決断をします。無秩序に進む宅地化に危機感を持っていたからです」
「内田の決断とは、土地区画整理事業(※1)の着手。狭く曲がりくねった農道しかなかった村に碁盤の目のような道を整備しようというのです。広い道をつくるには、各農家が農地を提供しなければなりません。反対する農家も少なくありませんでしたが、秀五郎は説得に飛び回り、事業を推進しました」
その結果、農家は代々守ってきた農地を宅地として貸し、地主として町の発展を見守っていくことになる。
「同じ頃、東京の郊外には、現在高級住宅地と呼ばれる住宅地がいくつも生まれましたが、それらはすべてデベロッパーの手で開発されたものです。農家が組合をつくってこれほどの規模で整った住宅地を開発したのは、井荻村だけの偉業でした」
区画整理後、現在の南荻窪に移住してきた人々の多くは、高級官僚、軍人、大学教授、大企業の社員などで、そうした人々が200~300坪の土地を入手し、広い庭を持つ趣向を凝らした家を建てたことから、現在の南荻窪の町並みが生まれたのだ。
さあ、実際に南荻窪の町を歩いてみよう。
協議会サポーターの木村まりさんと丸川英明さんらがガイドとして加わり、区民センターから「区立与謝野公園」に向かった。広々とした公園は、歌人の与謝野鉄幹と晶子夫妻が1927(昭和2)年、500坪の敷地に家を建て移り住んだ場所だ。そこから北に向かうと、大きな屋敷林に風格ある冠木門(※2)を構えた家があり、かつての大農家の存在をほうふつとさせる。
善福寺川の西側に位置するこの辺りは、時を経た洋館が多い。「川の浸食作用が生んだ見晴らしのいい台地に、家が造られたんですよ」と木村さん。「この頃建てられた家は、個人のプライバシー、主婦の働きやすさ、健康につながる日当たりなどを重視した、新しい価値観やライフスタイルに応えるものでした」
なだらかな坂のかたわら、通称「穴稲荷(あないなり)」がある梅田邸に立ち寄った。かつて善福寺川の崖にあった洞穴にまつられていた稲荷神を邸内に移してまつったという。きれいに手入れされた庭の奥に石鳥居と小さな社がひっそり建っており、まち歩きの参加者が代わる代わる手を合わせた。
梅田邸から南へ進むと、1997(平成9)年に国の登録有形文化財に指定された古宇田邸が見えてきた。1927(昭和2)年に建てられた洋館だ。
周辺には、洗い出し(※3)の塀の家や、丸窓と煙突のある家、帝国ホテル旧本館に使われたスクラッチタイル(※4)貼りの家など、当時のはやりを取り入れた邸宅がいくつもあった。
次に向かったのは「南荻窪天祖神社」だ。創建は不明だが、社伝によると1584年に検地が行われた際、既に小さい祠(ほこら)があったという。その後、伊賀(現三重県伊賀市)から移り住んだ農民らが修理し、あがめたとも言われる。「江戸前期、寛永の頃(1624-1644)には、この辺りは紀州の殿様の鷹(たか)狩り場でした。神社の東側には馬場があり、鷹狩りのお休み所にあてられたそうです」と丸川さんの説明があった。神社の先の個人宅では、庭に設置された胸像を特別に見せてもらった。村会議員を務め、土地区画整理組合第8区長として区画整理に取り組んだ宇田川鐐太郎(うだがわ りょうたろう)の胸像だ。りんとした姿に、農家が協力して町づくりをした誇りが込められているのを感じた。現在も敷地内に住む孫の一人は「私たちにとっては、怖いおじいちゃまでしたけど」と笑った。
静かな住宅街を進むと、ひときわ目立つオレンジ色の瓦に水色の外観のかわいい家があった。「1924(大正13)年築の洋館ですが、建てたのは法隆寺の大修理にも関わった宮大工だそうですよ」と木村さん。
南荻窪1丁目では、かつて「六華園」があった場所にも立ち寄った。「六華園」とは、1927(昭和2年)、関東大震災で孤児になった少女のために、歌人で社会事業家だった九条武子(※5)がつくった施設だ。さらに南に下り環八に抜ける道の途中にあった洋館は、白鳥のステンドグラスが窓を飾り美しかった。2006(平成18)年に杉並「まち」デザイン賞(杉並区主催)を受賞しているという。
こうして、南荻窪のまち歩きをたっぷり約2時間楽しみ、区民センターで解散。「実際に歩いてみると、武蔵野の農村から郊外住宅地へと発展してきた町の歴史がよくわかります。しかし残念ながら、相続による土地の分割などで、戦前からの建物や屋敷林は姿を消しつつあるのが現実です」と、松井さんは言う。静かな住宅地南荻窪は、時代の波によって少しずつ姿を変えていく運命にあるようだ。
※記事内、故人は敬称略
※1 土地区画整理事業:道路や河川などを整備し、土地の区画を整え、宅地利用の増進を図るもの。井荻村の事業は日本最大規模だった。工事は8つの工区に分けて進められ、南荻窪のうち旧下荻窪にあたる第2工区は1931(昭和6)年に、旧上荻窪を含む第8工区は1935(昭和10)年に完了した(「荻窪地域区民センター協議会企画展」パネル展示より抜粋)
※2 冠木門(かぶきもん):2本の柱の上部に冠木という横木を貫き渡し、上に屋根をかけた門。現在は屋根のないものをいうことが多い
※3 洗い出し:主にたたきなどに用いる左官の工法。小石とセメントなどを混ぜて塗った後、乾かないうちに表面を水洗いし小石を浮き出させたもの
※4 スクラッチタイル:細い溝の模様がある赤褐色から淡黄色のタイル。フランク・ロイド・ライトが帝国ホテル旧本館に使用して人気となった
※5 九条武子:1887-1928。歌人、社会事業家。佐佐木信綱に師事し、歌集「金鈴」で世に知られた。関東大震災で一命をとりとめ、羅災(りさい)者の救済にまい進した(「荻窪地域区民センター協議会企画展」パネル展示より抜粋)
「武州多摩郡上荻久保村風景変遷誌」梅田芳明(梅田銈治)
「井荻町土地区画整理組合事業誌」
「荻窪地域区民センター協議会企画展」(パネル展示)
監修:「荻窪の記憶」プロジェクト 松井和男