秋空が高く澄み渡った絶好の散歩日和、西荻地域区民センター協議会・トロールの森実行委員会主催のイベント「まちの成り立ちを歩いてみよう~西荻から善福寺公園~」に同行した。杉並の知られざる偉人、内田秀五郎(ひでごろう)のゆかりの地をまわるコースで興味深い。講師の野田栄一さんは、イベント企画からコーディネートまでマルチにこなす郷土史家だ。
「内田秀五郎を、知っていますか?」と、まず西荻窪駅前でミニレクチャーから始まった。1876(明治9)年生まれ、30歳という若さで旧井荻村村長になり、現在の区北部の土地区画整理を行い、特産品の生産や大企業の誘致で産業振興し、水道など生活用水の整備などにも貢献、地域の社会インフラを整えた人だという。そんな才覚あふれる秀五郎の業績をたどるべく、まち歩きに向かった。
西荻窪駅から北に向かい、細い路地に入る。緑に包まれた住宅街の雰囲気が心地よい。しばらく進むと「区立坂の上のけやき公園」が見えてきた。大きなケヤキが、地元住民の保護活動で守られている公園だ。
そのすぐ先の「区立井荻公園」は急な勾配に岩を配置し、景観が人気のスポット。かつてこの辺りにあった武蔵野50m崖線(※1)をほうふつとさせる。ここで、野田さんから土地区画整理にまつわる解説があった。「高低差の激しい環境は、生活には不便だった。区画整理というと、水平な整理だけを想像するかもしれませんが、秀五郎は垂直な整理も手掛けています。土地を削ったり盛ったりして急勾配をなくし、緩やかな坂のあるまちにしたんです」。参加者から「それがなかったら住みづらいまちだっただろうね」と声が上がる。
そこから緩やかな坂を下り、荻窪中学校前の地蔵坂へ進む。桃井四丁目交差点で、「ほら、交差点がきっちり十字になっているでしょ」と野田さんが指す先には、きれいな直角で交わる十字路があった。秀五郎は水平な整理も、ぬかりなかったようだ。
また、鉄道の駅開設にも積極的だった。1922(大正11)年には現在のJR中央線西荻窪駅、1927(昭和2)年には下井草、井荻、上井草と、現在の西武新宿線の駅を3つも誘致している。「こうして井荻村の価値を高めたんですね」と野田さんは言う。
青梅街道に出ると、通り沿いに西武信用金庫杉並営業部(上荻4丁目)がある。秀五郎は、その前身の一つである井荻信用購買組合を1909(明治42)年に設立し、井荻村の農業資金源を作った。現在は大きなビルが連なる大通りだが、かつては細々とした畑作地が広がる武蔵野の台地だったという。玉川上水の分水がこの辺りにかんがい用水を供給していたそうだが、水量に限界があり米は育たなかった。「江戸時代の紀行文には“八丁(※2)辺りからは貧農なり”と書かれていたようですよ」と野田さんは苦笑いだ。そうした土地で、利益の上がる農業として、たくあん作りなどに資金提供を行ったのだ。
青梅街道を西に進むと、井草八幡宮の大きな赤い鳥居が見えてきた。隣接する「サミットストア善福寺店」の場所には、かつて市場があったという。秀五郎は東京西部の農家の野菜などの販路を拡大し、東京新宿青果株式会社(現東京新宿ベジフル株式会社)を設立した後、この場所に青果を扱う杉並分場を開設した。「バナナを南米から輸入し、今のように廉価にしたのも秀五郎なんですよ」と野田さん。「そういえば、子供の頃はお土産がバナナだとうれしかった」と、バナナ談義に一同盛り上がった。
産業振興に関わる話は続く。秀五郎は企業誘致にも熱心で、1924(大正13)年に当時の大企業、中島飛行機の東京工場の誘致に成功した。現在、工場跡は「区立桃井原っぱ公園」などに生まれ変わっている。
杉並に産業を興し、農業の資金調達のために金融機関も整えたという秀五郎の才覚に驚くばかりだ。
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井草八幡宮に入ると、七五三の参拝をする親子を何組も見掛けた。ここから八幡幼稚園の脇を通り抜け、「都立善福寺公園」に到着。色付きだした公園の木々が、大きな池の水面に秋の色を映して美しい。
秀五郎は土地区画整理や産業振興に注力した一方で、環境保護への配慮を怠らなかった。「秀五郎には“緑残し地域と人を残す”という発想があったんですよ」。次第に武蔵野の景観を保全する動きが強まり、1930(昭和5)年に善福寺は風致地区(※3)となった。「郷土の風土を守るのは、私たちの責務」と明言した秀五郎だったが、人工的な遊具であるボートを池に置く公園計画には賛否両論あったようだ。今では見慣れた光景だが、「武蔵野の面影が台無し」とホトトギス派(※4)の俳人は嘆いていたというから、当時の人々の感覚にはなじまなかったのだろう。「風景はしばらくしないと人になじまないのかもしれない」と野田さんは言う。100年たった今、善福寺公園のこの景色は武蔵野の風景として人々に愛されている。
公園脇の短い坂道を上り、東京都水道局の杉並浄水場へ。善福寺池の湧水をくみ上げる旧井荻町営水道施設を秀五郎が作った場所だ。風致地区となったのと同じ1930(昭和5)年のことだった。
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秀五郎は、公害対策にも意識が高かった。中島飛行機の工場誘致に際して、「ばい煙」「騒音」「有害物質」「地下水使用」の4つについての規制を条件として提示していた。工場の排煙や騒音・振動、溶鉱炉から出る有害ガスの発生だけでなく、地下水の枯渇にも配慮を求めたという。井戸水が飲料水の時代、生活用水を守ることはとりわけ重要だった。産業振興の前に、住民の健康と生活を守る視点があったのだ。「大正という時代を考えると、信じられないような発想」と、参加者はしきりに感心していた。
野田さんは言う。「僕は時々、秀五郎が目指していたのは“田園都市(※5)杉並”だったのではないかと考えるんですよ。職住接近と地産地消を理想としたコンパクトなまちづくり。当時の日本の人口は8,000万人で、現在のように人口の減少が続くと、いつかまた8,000万人くらいになるかもしれない。日本がこれから目指すまちづくりは、秀五郎に学ぶところがたくさんあるでしょうね」
天災の被害を受け、性急に整備対策が求められている現在、秀五郎が生きていたら何と言うだろうか。そんな思いが頭をよぎった。
※記事内、故人は敬称略
※1 武蔵野50m崖線:崖線は、河川や海の浸食作用でできた崖地の連なり。約8万年前、東京湾の海面水位は現在よりも50mほど高く、杉並区東部あたりに海岸線があった。この海水に削られて崖状になった跡を、50m崖線と呼ぶ
※2 八丁:杉並区上荻。荻窪駅から徒歩約5分、青梅街道と環八通りが交わる四面道交差点から西荻窪方面に向かう途中辺り
※3 風致地区:都市の豊かな自然環境を維持するために、自治体が保護を行う地域
※4 ホトトギス派:大正から昭和初期の俳壇の主流。五七五の定型調や季題という伝統を守る俳句作りを主張した
※5 田園都市:田園の趣を計画的に取り入れた理想の郊外型都市
※6 インカム:イヤホン・ヘッドホン付きトランシーバーのこと