上林暁(かんばやし あかつき 1902-1980)は、高知県幡多郡(はたぐん)田ノ口村(現黒潮町)で生まれた。本名は徳廣巌城(とくひろ いわき)。中学生の頃から芥川龍之介に憧れ、作家を志す。1921(大正10)年、熊本の第五高等学校に入学し、小説や随筆を校友会雑誌「龍南」に発表する。東京帝国大学文学部英文科を卒業後、1927(昭和2)年、出版社「改造社」に入社。仕事の傍ら、五高時代の友人たちと同人誌「風車」を創刊し、ペンネーム・上林暁で執筆するようになった。「上林」は下宿していた熊本市上林町から、「暁」はそこから見える美しい暁の空からとった。
1932(昭和7)年「新潮」に発表した『薔薇盗人』は片田舎の貧しい家族を描き、川端康成にも賞賛された短編小説である。翌年、改造社が創刊した「文芸」の編集主任となったが、1934(昭和9)年、父が病に倒れたのを機に妻子を伴って帰郷、その後改造社を退社する。故郷では、息子の文学活動を理解できない母親から冷たい言葉を浴び、自ら「蟻(あり)地獄」と表現した作家生活のスランプに陥る。
1936(昭和11)年、再起を誓って妻子を伴い上京。1938(昭和13)年に発表した『安住の家』は、故郷を旅立ち、東京で迎えてくれた五高時代の友人の助けで杉並区天沼の借家を探し当てるまでを描いた作品である。この後、終生を天沼で暮らした上林の楽しみは、酒と阿佐ヶ谷会での将棋であった。
木山捷平と親しく、木山が満州に行く前には、高円寺駅近くの借家によく将棋を指しに出かけていた。木山も著書『大陸の細道』で、土佐出身という現地の同僚に上林と一勝一敗のままに日本を離れてきたことを告げており、互いに好敵手であったことが分かる。また、上林は「律儀な井伏鱒二」という随筆で、雑誌社からの依頼で井伏と将棋の手合わせをし、散々に負けてしまう話を書いている。上林が雑誌社から食事が出るものと弁当を持参しなかったのに比し、井伏はちゃんと弁当を用意していた。実際には夕食が出たのであったが、食事を卑しく当てにしない井伏の律義さに、将棋で負けた以上に心構えで負けたことの方がよほど悔しかった、と心中を打ち明けている。
戦前から体調を崩していた妻・繁子が、1945(昭和20)年、聖ヨハネ会桜町病院に転院する。戦後の食糧難の中で病妻を看護しつつ、自身も栄養失調に悩まされながらも執筆活動を続けた。『聖ヨハネ病院にて』には、妻の生い立ちについて筆記しようと持ち掛けるが、「嫌やですよ。貴方はまたそれを小説に書いて発表するんでしょう。」と拒まれ、心の奥底に潜む卑しい作家根性を恥じ入る場面がある。夕食を取っているとき電燈が消え、目の見えない妻の暗黒の世界を体験するつもりで食事を続けるが、その恐ろしさにすぐにろうそくの火をともす。その明かりで一瞬に救われた上林は、そんな救いもない妻に普段何かと腹を立てる自身の罪深さに心が乱れる。
1958(昭和33)年、第20創作集『春の坂』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。1962(昭和37)年、61歳のときに近くの銭湯で倒れ右半身不随となるが、妹・睦子の協力を得て、1980(昭和55)年に亡くなるまで口述筆記による創作を続け、幻想的な私小説『白い屋形船』で第16回読売文学賞、彫刻家・久保孝雄との交友を描いた『ブロンズの首』で第1回川端康成文学賞を受賞した。
『こころのふるさと 上林暁 人と文学の世界』上林暁文学館図録編集委員会(高知県大方町教育委員会)
『小伝 上林暁』門脇照男(高知県大方町教育委員会)
『故郷の本箱 上林曉傑作随筆集』山本善行編 (夏葉社)
『上林曉全集1』上林曉(筑摩書房)
『上林曉全集2』上林曉(筑摩書房)
『上林曉全集19』上林曉(筑摩書房)
『日本短篇文学全集27 滝井孝作・上林暁・外村繁』臼井吉見編(筑摩書房)
『川端康成文学賞全作品1』上林暁・佐多稲子・水上勉・富岡多恵子・永井 龍男(新潮社)
大方あかつき館 上林暁文学館:https://www.town.kuroshio.lg.jp/pb/cont/kuronavi-asobu/4108