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岸田國士さん

フランスで演劇を学び、劇作家・翻訳家として活躍

岸田國士(きしだくにお 1890-1954)は、東京市四谷区に四男四女の長男として生まれた。陸軍の軍人だった父の赴任に伴い14歳のときに名古屋陸軍地方幼年学校に入学。22歳で士官学校を卒業後、少尉に任官されるが、軍隊組織の裏面に嫌気がさし、一転して東京帝国大学(現東京大学)仏文科選科に進んだ。フランス近代戯曲に引かれ、1919(大正8)年8月に渡仏。ジャック・コポーが主宰する小劇場「ヴィユ・コロンビエ座」などに通い、フランス演劇の研究に没頭したが、父の訃報を受け4年後に日本に戻った。
帰国後は、パリで書いた戯曲『古い玩具』を文壇に発表したのを皮切りに、フランスの小説家ジュール・ルナールの『にんじん』を翻訳するなど、劇作家・翻訳家として活躍した。

岸田國士と娘たち。1930(昭和5)年撮影(出典:『岸田國士全集第8巻』)

岸田國士と娘たち。1930(昭和5)年撮影(出典:『岸田國士全集第8巻』)

『にんじん』(岩波書店)。にんじん色の髪の主人公に、作者が自分の少年時代を投影した戯曲形式の作品。岸田は本書の翻訳を通し、演劇において重要なのはセリフであるという信念を持つに至った。

『にんじん』(岩波書店)。にんじん色の髪の主人公に、作者が自分の少年時代を投影した戯曲形式の作品。岸田は本書の翻訳を通し、演劇において重要なのはセリフであるという信念を持つに至った。

良き伴侶と2人の娘に恵まれ、杉並に暮らした

1927(昭和2)年、37歳のときに英語翻訳に携わっていた村川秋子(ときこ)と結婚。翌年、阿佐谷に転居し、12月には長女・衿子(えりこ)が生まれた。この頃、女子大生だった石井桃子がフランスの女流文学について尋ねるため岸田家を訪問している。石井は後年、秋子のことを振り返り「ほんとうに花の咲いたような方だと思いましたよ」と語っている(『岸田國士の世界』より)。
1929(昭和4)年9月より、初の長編小説『由利旗江』を東京朝日新聞に連載。岸田は新聞連載の長編小説を好んで書き、『暖流』『泉』などは後年、映画化された。
1930(昭和5)年、次女・今日子が生まれ、阿佐谷から天沼へ転居する。2年後には松庵に家を新築し、1944(昭和19)年に長野県飯田市に疎開するまで杉並区内に暮らしていた。長女の衿子は地元の私立立教高等女学校(現立教女学院)を卒業後、東京美術学校(現東京芸術大学)に進み、詩人・童話作家となった。

1932(昭和7)年から1944(昭和19)年まで一家が暮らした杉並区松庵の自宅(出典:『岸田国士 人と作品』)

1932(昭和7)年から1944(昭和19)年まで一家が暮らした杉並区松庵の自宅(出典:『岸田国士 人と作品』)

「文学座」を結成し、新劇の発展に尽くす

1937(昭和12)年、久保田万太郎、岩田豊雄(獅子文六)と劇団「文学座」を結成。さらに翌年3月、山本有三の後を受けて明治大学文芸科長となった。
「文学座」は、歌舞伎などの旧劇に対し、西洋近代演劇に影響を受けた新しい劇「新劇」を目指した劇団である。岸田が翻訳したフランスの戯曲も演じられ、「演劇はせりふによって進行するドラマである」(『岸田國士の世界』より)という岸田の持論を実践する場となった。1948(昭和23)年には、次女の今日子が文学座の研究生になる。舞台美術家を目指すためという約束を父娘の間でしていたが、翌年1回限りということで舞台に立った今日子は女優になる決心をする。やむなく岸田は、基礎的な教養としてフランス語と舞踊を学ぶことを条件に、これを認めたという。
1950(昭和25)年、劇作家や文学者などが交流を図る団体『雲の会』を結成。杉並ゆかりの作家である井伏鱒二、河盛好蔵、小林秀雄などを含む、63名の著名人が入会した。
1954(昭和29)年、文学座三月公演『どん底』の演出を引き受けるが、本番を明日に控えた稽古中に倒れ、翌朝64歳で永眠。戯曲の執筆・演出を通し、日本の新劇の発展に尽くした生涯だった。
没後、岸田の遺志を顕彰すべく「岸田國士戯曲賞」が創設された。新人劇作家の育成を目的としており、「演劇界の芥川賞」とも称されている。

▼関連情報
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DATA

  • 出典・参考文献:

    『岸田國士の世界』駿河台文学会編 (駿河台文学会)
    『岸田国士 人と作品』竹中作子(清水書院)
    『最後の岸田國士論』大笹吉雄(中央公論新社)
    『岸田國士全集』第8巻、第28巻(岩波書店)
    『岸田國士全集』第5巻(新潮社)
    『にんじん』ルナアル作、岸田国士訳(岩波文庫)

  • 取材:杉野孝文
  • 掲載日:2021年09月06日