青を基調とした詩情あふれる抽象画を描き、「青の画家」と呼ばれる佐野ぬい(さの ぬい 1932-2023)さん。画家を志して青森から上京し、杉並区和田にある女子美術大学(以下、女子美)で学んだのちに同校で教鞭(きょうべん)をとり、75歳から4年間学長を務めた。後進の育成に力を注ぎ、数々の絵画賞を受賞するなどの功績に対し、複数の褒章・勲章も授与されている。
ぬいさんの次男の佐野壮(さの そう)さんは「母は自宅を兼ねた杉並区久我山のアトリエで多くの作品を制作しました。芸術家で教育者、そして妻であり母でした。女子美と家を往復し、いつも忙しくしていましたね」と語る。
ぬいさんは、1932(昭和7)年に青森県弘前市に生まれた(旧姓、佐々木)。生家は現在も幅広く展開している和洋菓子店「ラグノオ」を営んでおり、両親と2人の弟の他に菓子職人やお手伝いさんたちに囲まれた、大家族のような暮らしだったという。家が菓子店で友達にうらやましがられていたが、売れ残りの菓子を「夕方に主食のように食べさせられ」て胸やけをおこしたり、「シュークリームの皮を味噌汁の具にしてよく食べた」りしたと、後年に振り返っている(『ル・ソワール 回想』)。
店に併設のティールームの常連には、作家の石坂洋次郎さんや版画家の棟方志功さんなど、津軽地方の文化人たちがいた。父親が詩人でもあり同人誌に加わることもあったため、その縁で多くの人が集う場になったのだそうだ。
父親の影響で、子供の頃からシャンソンを聴きフランスの詩を暗唱し、小学生の時には好きな絵の教室にも通い始めた。
女学生になったぬいさんが夢中になったのは外国映画だった。青森県立弘前高等女学校(現青森県立弘前中央高等学校)に入学した年に第2次世界大戦が終わり、フランスや米国の映画が弘前の映画館にやってきた。「フランス映画の「巴里祭」「巴里の屋根の下」は、ついに私の人生を決定づけた」(「あおもり草子」112号)。
絵の教室では、終戦後にやっと出回り始めた油絵の具を使えるようになり、まるで外国に行ったような気分になったという。フランス映画に傾倒したぬいさんは、やがてパリの風景を自分の手で描きたいと思うようになる。「パリの屋根と煙突、街のカフェやホテル、歩いている人、ああ、あそこで絵を描きたい!(中略)そうだ、パリへ行こう」(同前)
弘前より東京の方がパリに近いから、という理由で「まず東京へ行こう」とぬいさんは決意する。上京し、1951(昭和26)年、女子美に入学。「当時の女の勉強する学校としては自由で楽しかった」(「あおもり草子」112号)という女子美で4年間制作に打ち込み、卒業後も研究室に助手として残って絵を描き続けた。
そして1955(昭和30)年、第9回女流画家協会展に「花・水・木」「或るところ」を出品、初めて賞を受賞した。また、同年の第19回新制作展に「くるまの唄」を出品して初入選を果たす。その後、女流画家協会展と新制作展にほぼ毎年出品し、その作風から「青の画家」として高い評価を得るようになる。
29歳で研究室の助手から専任講師になり、1969(昭和44)年には女子美の海外美術研修旅行に参加し渡欧。初めてパリの地を踏んだ。「かつて見た映画のシーンそのままの「北ホテル」「リラの門」で、「ワァー、これだ!」と心の中で叫んだ」(『ル・ソワール 回想』)。
「アトリエはダイニングを挟んでキッチンとつながっていて、母はいつも忙しく行ったり来たりしていました。キッチンへ行ったから何か料理をするのかな、と思うと筆を洗っていたり。庭に面していて明るいアトリエでしたが、絵を描くのはもっぱら夜。自然光は変化するので絵を描くのに向かないそうですし、母の場合は昼間は女子美で仕事をしていたこともあって、いつも夕食後にジャズを聴きながら描いていました」と壮さんは懐かしむ。久我山に住み始めた頃はリスが庭の芝生を走り、タヌキが夜中にやってくる、周囲にまだ自然が残る環境だった。
「アトリエにはイーゼルや画材だけでなく、青い瓶だけが並んだアンティークの白いキャビネットなど、お気に入りのさまざまな物が所狭しと置いてありましたね」
ぬいさんは、名前の「ぬい」と掛けた「nuit」(ニュイ、フランス語で夜の意)を作品に入れ、サインに使用していた。ぬいさんの作品の青色は「ぬいブルー」または「ニュイ・ブルー」と呼ばれている。「いつも夜に描いていたこともあって、母は“ニュイ・ブルー”という言葉を気に入っていたようです」と壮さんは語る。
ぬいさんは「「青」は私の絵の系譜の中では、いつも変わらぬマイカラーだった。「青」は不思議な色だ。快い、爽やか、明快という肯定的な気分を表すかと思えば、憂愁や、影、死という否定的な音色を出すこともある。そうしてまた、怠惰、幻想というような、ある種の不安感まで、多彩に表現できる色でもある」(『ル・ソワール 回想』)と書いている。長い創作活動の中でテーマや技法が変化していっても、基調となる色は常に「青」だった。
「青の画家」としてのぬいさんの活動は国内にとどまらず、パリやニューヨークで個展を開催し、損保ジャパン東郷青児美術館大賞をはじめとする絵画賞を受賞。教育者としても後進の育成に注力し、女子美の助教授・教授・名誉教授などを経て、2007(平成19)年から2011(平成23)年まで第16代学長を務めた。画業と教育の功績から、1986(昭和61)年と2011年に紺綬褒章、2012(平成24)年には瑞宝中綬章を授与された。
「2022(令和4)年11月に表参道ヒルズのGalerie412で開催した“佐野ぬい展 90th Anniversary Exhibition”が最後の個展になってしまいました。女子美の教え子さんたちがたくさん来てくださって、本人も格別に喜んでいました。根っからの教師なんだな、と思いましたね」と壮さん。
杉並区所蔵の「青の季節」は、1989(平成元)年に制作した縦2m、横6.5mの大作だ。杉並区役所の西棟9階に展示されている(一般の閲覧不可)。この絵について、ぬいさんは「杉並に私はすごく愛着がありますから。(中略)親しさとか温かさとか安心感とか気分の良さとか。杉並を描いたなっていうような気持ちの良さはあります」(杉並区公式チャンネル「洋画家 佐野ぬい」)と語っている。仮想美術館「スギナミ・ウェブ・ミュージアム」(※2)の常設展示「杉並の芸術家展」では、「青の季節」を含むぬいさんの作品26点を鑑賞できる。
壁画や大きなステンドグラスなど、パブリックアートも多く手掛けたぬいさん。アートを身近なものとして楽しんでほしいという、ぬいさんの思いがうかがえる。
佐野ぬい プロフィール
1932年 青森県弘前市に生まれる
1955年 女子美術大学芸術学部洋画科を卒業
以後、助手、専任講師、助教授、教授、大学院教授として後進を指導
1986年 紺綬褒章受章
1998年 女子美術大学名誉教授に就任
2003年 損保ジャパン東郷青児美術館大賞受賞
※その他、受賞歴多数
2007年 第16代女子美術大学学長に就任(~2011年)
2011年 紺綬褒章受章
2012年 瑞宝中綬章受章
2023年 90歳で死去 正五位に叙される
※1 女子美術大学創立110周年記念に「佐野ぬい展-110の夜を超えて-」と題した展覧会が日本橋高島屋にて開催された際、ぬいさんより着用衣装の依頼を受けて、女子美術大学ファッションテキスタイル研究室がデザイン制作した衣装3点。右端の衣装には「nuit」サインが110周年にちなんで110カ所に描き込まれている
※2 スギナミ・ウェブ・ミュージアム:杉並区との協働事業として、すぎなみ戦略的アートプロジェクトが運営する仮想美術館
https://www.suginamiart.tokyo/webmuseum/
『ル・ソワール 回想』佐野ぬい(三好企画)
「あおもり草子」(企画集団ぷりずむ)
「女子美120年」(女子美術大学120周年記念冊子)
「佐野ぬい展 遠い様式・青の構図」損保ジャパン東郷青児美術館(損保ジャパン美術財団)